船橋浦(読み)ふなばしうら

日本歴史地名大系 「船橋浦」の解説

船橋浦
ふなばしうら

船橋九日市ふなばしここのかいち村および船橋海神ふなばしかいじん村などの地先の浦、または両村とくに船橋九日市村の猟師りようし町が御菜浦として漁業権を主張した浦。海上交通の湊としては海老えび川の河岸を含めて考える必要があるが、「家忠日記」天正一八年(一五九〇)七月一二日条に「舟橋より舟にて江戸へ着」とあり、同年一〇月五日条・文禄二年(一五九三)九月二五日条にも同様の記載があるので、当時より江戸への海上交通が定期的なものであったことがうかがえる。元禄一五年(一七〇二)の五日市村検地帳(川奈辺家文書)には海老川東岸の海老川橋に近い順に「屋敷壱畝六歩 川 彦左衛門」など六人の屋敷持がみえ、いずれも海運業者と考えられる。「葛飾誌略」によれば、船路三里の江戸小網こあみ町までは船借切が二五〇文、乗合一人につき二五文、艫借一二四文、生き物一艘は七駄で、河岸上げ一〇〇文・船頭一〇八文、上げ銭一一文・問屋銭二九文。河岸荷場は泊屋一〇余軒のほかはならずとある。寛政五年(一七九三)の船橋九日市村明細帳(船橋町誌)、嘉永五年(一八五二)の船橋九日市村明細帳(船橋市西図書館蔵)によれば、古来より船一艘につき永一〇〇文を納めてきたが、享保五年(一七二〇)から永一四四文五分と増永になり、荷積船三艘役(嘉永五年には二艘)として永四三三文を支配役所に納めているという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報