船橋屋織江(読み)ふなばしやおりえ

世界大百科事典(旧版)内の船橋屋織江の言及

【羊羹】より

…江戸では寛政(1789‐1801)の初めに日本橋で喜太郎なる人物がつくり出して評判になり,練りようかんを食べさせるというだけで人を招くほどであったと,山東京山は《蜘蛛の糸巻》(1846)で回想している。また,《武江年表》は享和年間(1801‐04)に日本橋本町の紅谷志津摩(べにやしづま)が始めたとしており,《菓子話船橋(かしわふなばし)》(1841)の著者である船橋屋織江は同書の中で,〈文化の初,僕(やつがれ)が深川佐賀町に店を開きし頃には何処にも種類なく,一日に煉羊羹のみ八百棹,千棹の商内(あきない)〉があったといい,また〈今は……常の羊羹はあれども無きが如く〉と,練りようかんばかりが好まれるようになって蒸しようかんはまったくすたれたといっている。しかし,江戸時代きっての名店とされる日本橋本町の鈴木越後は依然蒸しようかんをつくっており,その声価がきわめて高かったことは《江戸名物詩》(1836)に見られるところである。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」