舞鶴(市)(読み)まいづる

日本大百科全書(ニッポニカ) 「舞鶴(市)」の意味・わかりやすい解説

舞鶴(市)
まいづる

京都府北部、若狭(わかさ)湾に臨む市。丹波(たんば)高地北部に位置し、西部を由良(ゆら)川が北流する。1938年(昭和13)舞鶴町が市制施行して舞鶴市となり、一方、同年新舞鶴町と中舞鶴町、倉梯(くらはし)、与保呂(よほろ)、志楽(しらく)の3村が合併、市制施行して東舞鶴市が成立し、1943年両市が合併して現在の舞鶴市が誕生した。1957年(昭和32)加佐(かさ)町を編入。JR舞鶴線、小浜(おばま)線、京都丹後鉄道宮舞線、国道27号、175号、177号、178号、舞鶴若狭(わかさ)自動車道、京都縦貫自動車道が通じる。

 若狭湾支湾、舞鶴湾西部に位置する旧舞鶴市は、古くは田辺(たなべ)といい、1580年(天正8)細川藤孝(ふじたか)(幽斎(ゆうさい))が築城に着手し、江戸時代は京極(きょうごく)氏を経て牧野氏田辺藩3万5000石の城下町であった。今日も諸所に城下町のおもかげをとどめ、城跡の一部は舞鶴公園となっている。また西廻(まわ)り航路の港津としても栄え、古い廻船(かいせん)問屋が残っている。1869年(明治2)田辺藩は舞鶴藩改称、1871年には一時舞鶴県となった。舞鶴湾東部に位置する東舞鶴は、余部下(あまるべしも)などからなる農漁村であったが、1901年(明治34)に海軍鎮守府が開庁、海軍機関学校、造兵廠(しょう)、造船所などが置かれ、以来、軍港都市として急速に発展した。市街は整然と計画され、寺川と新川の間は京都に倣って一条から九条の通りとし、東西の通りは、八島(やしま)、敷島(しきしま)、大和(やまと)などの軍艦名が付された。第二次世界大戦後は、ソ連や中国大陸からの抑留者の引揚げ港となり、1950年旧軍港都市転換法の制定により、東港域の旧海軍の施設は民間工場に転用されて、造船、機械、化学などの重工業をはじめ、板ガラス、合板紡績などの諸工業が誘致された。なお旧軍港の一部は海上自衛隊の基地となっている。また北海道小樽(おたる)との間には大型フェリーが就航している。舞鶴西港は日ソ貿易港となり、埠頭(ふとう)も建設され、1961年にはソ連ナホトカ市と姉妹都市盟約を結び、同市との間に定期航路が開かれた(現在は貨物船のみの随時運航)。ロシア、朝鮮半島、中国など大陸との貿易の拡大に伴って、阪神経済圏から至近距離にある貿易港として、その発展が期待されている。2010年(平成22)舞鶴国際埠頭が完成。現在就航中の航路(すべて貨物船)はロシア航路(ウラジオストク)、韓国航路(釜山、東海)、中国航路(大連)。好漁場の若狭湾を控え、田井などではブリの定置網漁業が行われ、舞鶴西港(漁港)は漁獲物の集散地でもある。

 松尾寺(まつのおでら)は西国(さいごく)三十三所第29番札所で、絹本著色普賢延命像(国宝)を蔵する。室町時代の金剛院塔婆(三重塔)、江戸後期から末期の行永(ゆきなが)家住宅は国指定重要文化財。また、冠(かんむり)島のオオミズナギドリ繁殖地は国指定天然記念物。沿岸一帯は若狭湾国定公園域。そのほか、引揚港舞鶴の歴史を展示した舞鶴引揚記念館、れんがをテーマとしたユニークな赤れんが博物館、市街が一望できる五老スカイタワーなどがある。面積342.13平方キロメートル、人口8万0336(2020)。

[織田武雄]

『『舞鶴市史』全7巻(1973~1994・舞鶴市)』


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