致道館(読み)ちどうかん

日本歴史地名大系 「致道館」の解説

致道館
ちどうかん

[現在地名]日出町日出

日出城二の丸にあった日出藩藩校。現在本館木造瓦葺平家建(一部二階建)が移築されて伝存し、県指定史跡。日出藩の文教は三代藩主木下俊長の時代から始まる。寛文元年(一六六一)に幕府の儒官人見竹洞や小野鶴山を招いて講釈させ、八代俊能は寛保年間(一七四一―四四)に原田東岳を儒員とし、また江戸の伊東藍田に講釈させ、一〇代俊胤は明和七年(一七七〇)に喬南亭を儒員とした。一一代俊懋は天明八年(一七八八)に井上懿徳(大成)を儒員とし、三浦梅園秋山玉山を招いて学事に進言させている。一三代俊敦の時、文化元年(一八〇四)には帆足万里を儒員とし、その宅内に藩費をもって稽古堂が設けられた。天保年間には城内二の丸に学問所が設立され、毎月六回の講義が藩士の子弟に行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「致道館」の意味・わかりやすい解説

致道館
ちどうかん

美濃(みの)(岐阜県)大垣藩の藩学。のち敬教堂(けいきょうどう)と改称。藩主戸田氏康(うじやす)が1837年(天保8)設立。万延(まんえん)・文久(ぶんきゅう)年間(1860~64)に盛況、聖廟(せいびょう)・講堂・学寮を増築した。漢学・算学・筆道および医学を講ずる文学校と、兵学を教える武学校とからなり、藩士の子弟で8~15歳の者が入校、生徒はかならず文武両道を兼修すべきものとされた。武学校は、文学校で4年以上四書五経の句読を修了した者が入学を許された。維新後、農民の子弟にも入学が勧められ、学校の規模も拡張され、皇漢学の南校を増設、旧敬教堂では洋学を教え北校と称した。維新後の生徒数は寄宿生・通学生合計約500人。のち公立小学興文第一校となる。また斎藤正謙著『救荒事宜(きゅうこうじぎ)』を出版している。なお、ほかに致道館を称する藩学が、庄内(しょうない)(鶴岡(つるおか))藩、磐城湯長谷(いわきゆながや)藩、土佐藩豊後(ぶんご)日出(ひじ)藩にある。日出藩学は、藩主が1804年(文化1)帆足万里(ほあしばんり)の塾を収公、彼を学頭に迎えて設立したものである。

[木槻哲夫]

『文部省編・刊『日本教育史資料一 巻三 東山道』(1889)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「致道館」の意味・わかりやすい解説

致道館
ちどうかん

庄内藩の藩校。文化1 (1804) 年藩主酒井忠徳によって設立され,翌年白井東月を初代教授に迎えて開校。段階別の教場を備え,生徒も 10~14歳の初学生,句読生,15歳以上の終日詰生,外舎生,試舎生,舎生と学力に応じて進級する制度をとり,蘐園 (けんえん) 学派の構想を具現したものといわれている。なお同名の藩校が土佐藩,大垣藩などにもあった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「致道館」の解説

致道館
ちどうかん

出羽国鶴岡藩の藩校。1804年(文化元)城下御持筒(おもちつつ)町に聖廟などを建設,徂徠(そらい)学派の白井重行を祭酒(さいしゅ)として開校,藩士に儒学・軍学の聴講を命じた。12年三の丸に移し句読所などを増設,職制を定め初等から高等教育までの教科(和学・漢学・兵学・諸武芸)を設けた。山形県鶴岡市の致道館跡国史跡

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android