自由党(1950年結成)(読み)じゆうとう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

自由党(1950年結成)
じゆうとう

1950年(昭和25)3月1日、民主自由党民主党連立派の一部を吸収して結成した保守政党。1949年1月総選挙の結果、絶対過半数を制した民主自由党総裁吉田茂は、持論保守合同を実現すべく、まず民主党に提携を申し入れた。吉田の保守合同の目的は、講和条約締結と独立後の保守安定支配体制の確立にあった。この申入れに対して民主党は提携派と野党派に分裂し、また提携派の犬養健(いぬかいたける)総裁に対する民自党内部の反発もあって交渉は難航し、結局、連立派28名の民自党入党という吸収合同の形で結成された。初代総裁吉田茂、幹事長広川弘禅(こうぜん)。

 自由党は衆議院で288名、参議院で60名を確保した結果、第三次吉田内閣の基盤は強固となった。政局運営は自由党主導で進み、吉田内閣は1950年9月サンフランシスコで講和条約と日米安保条約を締結し、占領体制を終結させる一方、日米同盟体制の確立と日本経済の復興を政策の基軸に据え、漸進的な再軍備路線をとった。しかし1951年6月公職追放が解除されて鳩山(はとやま)一郎、三木武吉(ぶきち)らが自由党に復党すると、吉田の党内基盤は動揺した。すなわち、党内反吉田勢力は鳩山派を結成して総裁の交替を求め、政策でも吉田の対米協調・経済重視に対して、憲法改正、再軍備、日ソ国交回復など政治課題を掲げ、両派は対立した。このような鳩山派の攻勢に吉田は1952年8月衆議院の「抜き打ち解散」で対抗し、同時に反吉田派の急先鋒(きゅうせんぽう)である河野一郎と石橋湛山(たんざん)を除名した。他方鳩山派は民主化同盟を結成して反吉田の旗幟(きし)を鮮明にし、1953年3月「バカヤロー」発言問題で野党が提出した吉田茂懲罰動議と吉田内閣不信任決議案に同調し、いずれも欠席して成立させた。吉田首相はこれに対して衆議院解散で対抗したため、硬化した鳩山派と反吉田にたった広川派の39名が脱党して自由党分党派(鳩山自由党)を結成、自由党は事実上分裂した。

 1953年4月自由党は第五次吉田内閣をつくったが、過半数を割って政局は動揺し、その後鳩山自由党の一部の復帰をみたものの、1954年に入って保全経済会事件、造船疑獄が相次ぎ、自由党と吉田内閣に対する批判は高まった。この事態に鳩山らは1954年11月自由党を再脱党して改進党などと日本民主党を結成、自由党は再分裂し、翌12月吉田内閣は総辞職して鳩山一郎内閣の野党に回った。1955年11月、財界の圧力で日本民主党と保守合同し、自由民主党となった。

[吉田健二]

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