自由党(イギリス)(読み)じゆうとう(英語表記)The Liberal Party

日本大百科全書(ニッポニカ) 「自由党(イギリス)」の意味・わかりやすい解説

自由党(イギリス)
じゆうとう
The Liberal Party

保守党と並んで長い歴史をもつイギリスの政党。18世紀から19世紀に存続したホイッグ党後身。ホイッグという党名は名誉革命のとき、トーリーに対抗して立憲君主制の成立に尽くした進歩派のホイッグにちなむ。ジョン・ロックに代表される政治理論をもち、議会に依拠して絶対主義的王権と闘い立憲君主制の樹立に寄与した。18世紀にはホイッグ党のウォルポール内閣の下に議院内閣制(責任内閣制)が成立した。19世紀に入ると、産業革命による社会経済的変動を背景にして、議会(選挙)改革や政治的自由を求める改革派もホイッグ党内に現れ、1832年にはホイッグ内閣の下に新興の中産階級にも参政権を認めた第一次選挙改革が行われた。自由党のリベラルLiberalという語は、自由主義的改革運動が高揚したこの改革の十数年前から、ホイッグ党進歩派を意味するものとして使われていた。

[犬童一男]

成立および沿革

自由党は1859年6月、ホイッグ党や、1846年の穀物法廃止を契機に保守党とたもとを分かったピール派Peelites(自由貿易派)、そして非国教徒や産業界を基盤とする急進派のリーダーたちの会合から院内党として生まれた。以後この党は、穏健リベラル派を中心にして、右にもっとも有力なホイッグ、左に急進派の3派構成の党となった。院内党の形成に対応して院外でもバーミンガムをはじめ各都市で組織化が進み、1877年自由党全国連合が設立された。この形成期自由党の代表的政治家がピールとともに保守党を離れたW・E・グラッドストーンであり、彼の内閣の下に1880年代にまでわたって自由主義的改革が行われ、自由党全盛時代を迎えた。だが自由党の自由放任主義や小イギリス主義は、帝国主義時代に失業や貧困などの社会問題やアイルランド自治問題に面して苦悶(くもん)し、1886年には新急進派のJ・チェンバレンやホイッグ派がアイルランド自治法案に反対して自由統一党を結成し、保守党に移行する端緒となった。この分裂で自由党勢力は衰え、1900年の労働党の成立もそれを促進させることになった。

 1894年にグラッドストーンは首相と党首の座を離れ1898年に他界するが、後継者のローズベリー首相の下に行われた1895年の総選挙で自由党は大敗した。さらに1900年総選挙では、保守党議席の半分にも及ばぬ敗北を喫し、保守党政権が10年も続いた。

 こうした政党政治の流れを変えたのが、自由党進歩派の台頭によるニューリベラリズムとよばれる政策への切り替えである。それは自由放任主義の政策から貧困や教育などの社会問題の解決に国がかかわる社会政策への転換であり、南ア戦争ブーア戦争)を批判し、南アフリカの自治権を認めるといった対外政策の選択であった。この立場を代表した政治家が1899年から8年間党首を務めたキャンベル・バナマンである。この党首と1908年に後継者となるアスキスの下に自由党は1906年総選挙で前回を逆転する勝利を得て、安定した政権下に公約の政策課題に取り組んだ。歴史に残るこの自由党政権の業績は、(1)社会政策で福祉国家の原型をつくったこと、(2)1911年の議院法制定で貴族院に対する庶民院の優越性を確定したこと、の2点である。

 第一次世界大戦期に自由党内閣は挙国一致の連立内閣に改組されたが、アスキス首相の緩慢な戦争指導の責任が問われて、1916年末首相の座はロイド・ジョージに移り、第二次連立内閣の下強硬な戦争遂行にあたることとなった。この経緯から自由党はアスキスの自由党とロイド・ジョージの挙国自由党に分裂した。大戦後1923年に再統一したが、著しく党勢を伸ばしてこの年の総選挙で第二党となる労働党に二大政党の一党たる地位を奪われ、その後院内第三党の地位に甘んずることになった。1945年から1979年までの11回の総選挙での実績をみると、議席14、得票率19.3%の1974年2月選挙が最高で、1951年の議席6、得票率2.5%が最低の結果である。しかし党員は1981年に18万を数え、中流階級で教育水準も高い人々が多いのが特徴である。こうした党員に支えられて自由党は逆境のなかでも生き抜いてきた。

[犬童一男]

自由党から自由民主党へ

この自由党にとってふたたび有力政党となるための隘路(あいろ)は、小選挙区単純多数代表制であった。民意を代表する公正な制度に変えることがこの党の重要な政策であり、そのために自由党は1981年、労働党を捨てた自由党寄りの政治家たちが結成した社会民主党(SDP)と連合(The Alliance)を形成した。この連合体で1983年と1987年の総選挙に挑むが、1983年は23議席、得票率25.4%、1987年は22議席、得票率22.6%と期待に反して落胆させられる結果であった。しかし、議席獲得には至らなかったものの、国民から示された支持の表れである得票率に期待をつなぎ、連合ではなく一つの政党とすることになり、1988年に両党が合同して社会自由民主党(SLD)を結成。翌年SLDは自由民主党(Liberal Democrats、略称LD)と党名を改めた。党首には下院議員のアシュダウンPaddy Ashdown(1941―2018)が選ばれた。この自由民主党成立後の1992年総選挙では保守党が強く、自由民主党は前回1987年よりも下回る20議席、得票率17.8%であった。だが、次の1997年総選挙では保守党が大敗した結果、46議席、得票率16.8%を得て、議会内でも影響力を強めた。

 自由民主党は1997年総選挙後のブレア政権の下で、地方分権制への移行、選挙制度の抜本的改革、上院改革などさまざまな問題に関する諮問委員会に参画した。1998年末に下院議員選挙制度改革案を答申した同党のジェンキンズは、ブレア首相の師ともいわれた。自由民主党はもはや以前のような小さな野党ではなく、国の政治運営に強くかかわっている党であり、政治制度改革によって、よりいっそう安定した地位を国政、地方政治、EU(ヨーロッパ連合)政治の場で占めることになる。

 党員数は自由民主党成立時に旧自由党の時点よりかなり減少したものの、1997年には10万にまで回復し、地方議員数では労働党に次ぐ第二党である。日本の自由民主党はLiberal Democratic Partyであるが、イギリス自由民主党はLiberal Democratsと表記され、より深く自由と民主主義にかかわっている。

 第二次世界大戦後の歴代党首は、1945年から1956年までデービスClement Edward Davies(1884―1962)、1956年から1966年までグリモンドJoseph Grimond(1913―1993)、1967年から1976年までソープJohn Jeremy Thorpe(1929―2014)、1976年から1988年までスチールSir David Martin Scott Steel(1938― )。1988年からの自由民主党(LD)での初代党首は自由党系のP・アシュダウン、1999年からは社会民主党(SDP)系のケネディCharles Kennedy(1959―2015)。

[犬童一男]

『V. Bogdanor(ed.)Liberal Party Politics(1983, Clarendon Press)』『V. BodganorMulti-Party Politics and the Constitution(1983, Cambridge University Press)』『A. CyrLiberal Politics in Britain(1989, Transaction Press)』

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