胎蔵曼荼羅(読み)たいぞうまんだら

世界大百科事典(旧版)内の胎蔵曼荼羅の言及

【曼荼羅】より

…7世紀初めの初唐には,密教の金剛界において行われるような本尊を観想するための,ヒンドゥー教の瑜伽(ゆが)観法がみられ,これ以後,観想はますます発達する。7世紀中期の《陀羅尼集経》には,諸尊を集合した普集会壇が作られ,各種諸尊法の発達が著しく,仏部,金剛部,観音部の3部構成の大曼荼羅が出現し,8世紀初めの菩提流志(ぼだいるし)訳《不空羂索(ふくうけんじやく)神変真言経》や《一字仏頂輪王経》では,中尊はいまだ釈迦如来だが,他の諸尊の配置は,胎蔵曼荼羅成立直前のものにまで整備発達した。 このように曼荼羅は本来壇を中心とする個別の曼荼羅に源を発し,時代とともに離合集散しながらしだいに総合されてきた。…

【両界曼荼羅】より

…両部曼荼羅とも称される。これら金・胎両曼荼羅は,インドでは別々に発達し,7世紀中ごろに成立した《大日経》により胎蔵曼荼羅が作られ,7世紀から8世紀初めにかけての《金剛頂経》にもとづき金剛界曼荼羅が出現する。胎蔵界曼荼羅は大悲胎蔵生曼荼羅,また胎蔵曼荼羅と称し,〈界〉を有さないが,中国唐代において金剛界曼荼羅と併用するにいたり,両者をあわせて両部曼荼羅と称されたが,のち〈金剛界〉に対応させて胎蔵界曼荼羅となり,両界曼荼羅の呼称が一般化した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」