聚楽第跡(読み)じゆらくだいあと

日本歴史地名大系 「聚楽第跡」の解説

聚楽第跡
じゆらくだいあと

豊臣秀吉が天正一五年(一五八七)に、大内裏の故地である内野うちのの東北部に築いた城郭。天守閣を構え周囲に石垣と堀をめぐらし、聚楽城ともよばれた。

造営着手は秀吉が関白に就任した翌年の天正一四年、大坂城の工事はまだ続行中であった。「宇野主水日記」は大坂城造築に諸国から徴発された人夫は七、八万から一〇万、それに対し「京都ノ普請ソノツレ(常)ナル事ニテハナシ。猶以大篇之事ト云々」と、大坂をしのぐありさまを伝える。また「多門院日記」同一四年二月二七日条は「去廿一日ヨリ内野御構普請、大物以下事々敷、諸国衆自身々々沙汰之、ヲヒタヽシキ事也。関白殿廿三日ニ御上」と記す。同年六月頃には四国・東国の各地から用材が集められ、翌一五年正月から作庭の木石が諸家より徴発されている。二月七日には早くも秀吉は新第で廷臣の歳首の礼を受けており(兼見卿記)、ほぼ工事は完成していたのであろう。同年八月九州征伐を終えた秀吉は八朔の祝を新第で行い(兼見卿記)、九月一三日大坂より新第に移り(言経卿記)、秀吉の政庁が正式に京都に置かれた。

新装なった聚楽第についての「聚楽第行幸記」は

<資料は省略されています>

と描き、フロイスはその著「日本史」で賛嘆する。

<資料は省略されています>

聚楽の名について行幸記は「誠に長生不老のたのしびをあつむるものか」、フロイスは「快楽と歓喜の集りを意味する」と述べ、「山城名跡巡行志」は「連判録」を引用して「聚楽角坊」があったことによると記す。

造営の目的は豊臣政権の安定と権力を誇示することにある。後陽成天皇の行幸はそのため何より必要で、天正一六年(一五八八)四月一四日が行幸の日と定められた。当日の警衛の武士は六千余人、前駆が既に聚楽第に入っても、後乗はまだ宮内を出ないといった有様で、車馬衣冠も華麗を極めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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