聖母子(読み)せいぼし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「聖母子」の意味・わかりやすい解説

聖母子
せいぼし

聖母マリアと幼児イエスをいう。『新約聖書』によればマリアはダビデ家に属し(「ルカ伝福音(ふくいん)書」1章27節)、ヨセフと婚約したが聖霊によって懐胎し、イエスを産んだ。キリスト教信者はこのイエスが救い主であり、神の独子(ひとりご)が人となられた方であると信ずる。第3回エフェソス公会議(431)がマリアを「神の母」として教義的に公認して以後カトリック教会では「神の母」マリアへの崇敬が急速に広まった。マリアは神の子イエスにもっとも近い方であるから、マリアに取次ぎを願うのである。この信心のために、マリアと幼児を聖母子として崇(あが)めるようになった。

[門脇佳吉]

聖母子像

キリスト教美術の図像の一つ。幼児イエスを胸に抱いた聖母マリアの表現だが、物語場面ではなく、神の母(テオトコス)としての聖母マリアの神性顕示を目的とした礼拝像である。431年の第3回エフェソス公会議でのマリアの神性宣告ののち、キリスト教美術に登場した表現とみなされている。

 3~4世紀のローマのカタコンベ(地下墓所)壁画にも聖母子像とおぼしき作例があるが、確証はない。エフェソス公会議ののち、各地に聖母崇拝が生まれ、マリアに捧(ささ)げられた教会が次々に建てられ、聖母子像も壁画に描かれていたと思われるが、5世紀の作例は現存しない。6世紀以降の教会壁画やイコンに聖母子像表現が盛んになる。その表現形式は、立像の聖母が左腕にキリストを抱きかかえるホディギトリア型、正面を向いた座像の聖母が膝(ひざ)にキリストを抱えるニコポイア型を基本型とし、9世紀のイコノクラスム(聖像破壊運動)終結後には、多彩なバリエーションが生まれた。

 ビザンティン美術の聖母子像は、荘厳なる母の役割が導き手(ホディギトリア)、勝利者(ニコポイア)といった意味をもっていたのに対して、西欧の聖母子像はあくまでもマリアの人間的な優しさを強調したものが多く、マリアがひざまずいて幼児イエスを崇拝する形式も生まれた。「授乳の聖母」や「謙遜(けんそん)の聖母」などの内容を伝えるものもある。白や赤のバラの垣根を背にした「バラ垣の聖母」や、点景として配されるスズランやスミレの花なども聖母の優しさの表現であり、また、楽園の象徴でもあった。そして、これらの図像を母胎として、盛期ルネサンスには戸外の風景を背景とする聖母子像が多数つくられた。G・ベッリーニの『牧場の聖母』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、ラファエッロの『鶸(ひわ)の聖母』(ウフィツィ美術館)、レオナルド・ダ・ビンチの『岩窟(がんくつ)の聖母』(ルーブル美術館)などはその代表的作例であり、これらイタリア美術における聖母子像はしばしば「マドンナ」Madonnaともよばれている。聖母とイエスが頬(ほお)をすり寄せる表現もあるが、ビザンティン美術ではマリアはわが子の運命を案ずるような深い悲しみの表情をたたえ、イエスは無邪気に頬をすり寄せている。これに対して、西欧美術ではその関係は逆転して、あくまでも慈しみに満ちた聖母、母たるマリアの表現になっている。

[名取四郎]


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改訂新版 世界大百科事典 「聖母子」の意味・わかりやすい解説

聖母子 (せいぼし)
Madonna and Child

キリスト教美術の主題の一つで,幼児イエスを伴う聖母マリアの表現。崇拝や祈願の対象として,説話的場面から独立した表現がとられる。5世紀に神の母テオトコスとしてのマリアが教義的に公認されてのち,急速に普及した。最も古い例ではすでにプリシラPriscillaのカタコンベ(ローマ)にみられるが,初期キリスト教美術では5世紀以来,マリアの神性を強調し,もっぱら不動で厳粛な《玉座の聖母子》として表現された。大々的な展開は,イコノクラスム以降のビザンティン美術に生じ,いわゆるイコンとして数多くの型式が確立された。主要なものとしては,ニコポイアNikopoia型すなわち聖母,幼児ともに正面向きで聖母が両手に幼児を抱く型(イスタンブールのハギア・ソフィア南階土間のモザイク,1118ころ,など),ホデゲトリアHodēgetria型,すなわち左腕に幼児を抱く聖母,あるいはより情愛に満ちたグリュコフィルサGlykophilousa型,すなわち聖母にほおをすり寄せる幼児(《ウラジーミルの聖母》モスクワのトレチヤコフ美術館,12世紀,など)等が挙げられる。これら東方の原型は西ヨーロッパに導入され,ロマネスク期には木彫の礼拝座像の《上智の座》として表され,ゴシック期にはホデゲトリア型の伝統を継ぐ優美な聖母立像が多くの教会堂を飾った(パリのノートル・ダム大聖堂北袖廊正面,1250ころ,など)。中世末,イタリアのシエナを中心に新たな興隆が生じ,《荘厳像(マエスタMaesta)》などモニュメンタルな表現(ジョット作,フィレンツェのウフィツィ美術館,1310ころ,など)の一方,《授乳の聖母》《謙遜の聖母》などの,より人間的情感的な母子表現がしだいに優勢となった(アンブロージョ・ロレンツェッティ作,シエナのサン・フランチェスコ教会,1330ころ,など)。この傾向はさらに北方のフランドル,ドイツで発展をみた。イタリア・ルネサンス美術では牧歌的な聖母子表現が愛好された。バロック期に入ると反宗教改革の影響をうけて,《天の女王》《悲しみの聖母(マテル・ドロロサ)》など多くの神秘的な図像が現れた。
マリア
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百科事典マイペディア 「聖母子」の意味・わかりやすい解説

聖母子【せいぼし】

聖母マリアと幼児イエス・キリストの母子をいう。東方キリスト教世界で神の母(テオトコス)としてのマリア崇拝が興るにつれ,5世紀以降聖母子像が作られるようになり,種々のイコンで神秘的に表現された。西方でもロマネスク時代に採り上げられ始め,ルネサンス期には人間的な聖母子像が数多く制作された。
→関連項目象牙彫ベリーニ[一族]リッピ[父子]

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世界大百科事典(旧版)内の聖母子の言及

【マリア】より

…聖母像はまずこれを独立像と説話図像とに分けることができる。
[独立像]
 独立像は多く礼拝や祈願の対象とされるもので,ふつう〈神の母〉としての性格を明示するために聖子を抱いた聖母子の形をとる。その古い例はすでに初期キリスト教時代のカタコンベの壁画に現れているが(ローマ,プリシラのカタコンベなど),礼拝像としての聖母子像がとくに発達を始めたのは,前述のテオトコスの教義が確立したエフェソス公会議以後のことと思われ,さらに6世紀以後に普及の度を速めたらしい(ローマ,コモディラのカタコンベ壁画,シナイのカタリナ修道院のイコンなどが現存例)。…

【ラファエロ】より

…1504年秋ごろからフィレンツェに移り,フィレンツェ派,とくにレオナルド・ダ・ビンチの作品を学んで,静謐で安定した様式を完成した。この時期の代表的作品として,《聖母の埋葬》(ボルゲーゼ美術館),《アニョロおよびマッダレーナ・ドーニの肖像》(ピッティ美術館)のほか,《大公の聖母》(ピッティ美術館),《ひわの聖母》(ウフィツィ美術館),《牧場の聖母》(ウィーン美術史美術館),《美しき女庭師》(ルーブル美術館)など,多くの聖母子像が挙げられる。08年,教皇ユリウス2世に招かれてローマに赴き,ユリウス2世,レオ10世の下でバチカン宮殿の〈署名(セニャトゥーラ)の間〉(1508‐11),〈エリオドーロの間〉(1511‐14),〈ボルゴの火災(インチェンディオ)の間〉(1514‐17),〈ロッジア〉(1517‐19)などの装飾活動に従事した。…

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