聖冏(読み)しょうげい

精選版 日本国語大辞典 「聖冏」の意味・読み・例文・類語

しょうげい シャウゲイ【聖冏】

南北朝時代から室町時代初期の浄土宗の僧。号は酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)。世に三日月上人と称する。常陸(茨城県)の人。諸宗の学に通じ、神道儒教にも詳しく、講義著述に専念し、また和歌をたしなんだ。小石川伝通院の開創者。著に「釈浄土二蔵頌義」「伝通記糅鈔」「古今集序註」など三〇余部がある。暦応四~応永二七年(一三四一‐一四二〇

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「聖冏」の意味・読み・例文・類語

しょうげい〔シヤウゲイ〕【聖冏】

[1341~1420]室町前期の浄土宗の僧。常陸ひたちの人。号、酉蓮社了誉ゆうれんしゃりょうよ通称三日月上人。神道・儒教なども学び、晩年に江戸小石川に伝通院を創建した。著「伝通記糅鈔でんづうきにゅうしょう」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「聖冏」の意味・わかりやすい解説

聖冏
しょうげい
(1341―1420)

室町時代の僧。浄土宗第七祖にして浄土宗教団の基礎をつくった。酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)と号する。常陸(ひたち)国(茨城県)久慈(くじ)郡に生まれ、8歳で同国瓜連(うりづら)常福寺の了実(りょうじつ)(1304―1386)に就いて出家、25歳のとき浄土宗五祖定慧(じょうえ)(1296―1370)より宗脈と戒脈を付法された。その後、諸宗の碩学(せきがく)に学んで各宗の教義に精通し、浄土宗の地位の向上に尽力した。また浄土宗の伝法(でんぼう)の儀式として五重相伝(ごじゅうそうでん)を創始し、宗侶(しゅうりょ)養成の制度を確立させた功績は大きい。『観経疏伝通記糅鈔(かんぎょうしょでんずうきにゅうしょう)』48巻、『選択伝弘決疑鈔直牒(せんちゃくでんぐけつぎしょうじきてつ)』10巻など浄土宗祖師を顕彰する著述も多く、また浄土宗と神道(しんとう)との関連を述べた述作もある。晩年は江戸・小石川に草庵(そうあん)を開いて隠栖(いんせい)。これが後の伝通院(でんずういん)である。

[阿川文正 2017年8月21日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「聖冏」の意味・わかりやすい解説

聖冏 (しょうげい)
生没年:1341-1420(興国2・暦応4-応永27)

室町初期の浄土宗の僧。酉蓮(ゆうれん)社了誉と号し,額に三日月の相があったので三日月上人とも呼ばれる。常陸国久慈郡の人。8歳で瓜連(うりづら)の常福寺了実について出家。宗学を同国太田の蓮勝,箕田(みのだ)の定慧らに学ぶ。さらに諸宗の学匠を訪ね,天台,真言,禅,俱舎,唯識,さらに神道,和歌などの諸学を修めた。学業なるや瓜連に帰り,1378年(天授4・永和4)了実から法脈を相承,ついで常福寺に住した。当時,浄土宗が他宗から独立した宗派とみられていなかったことを嘆き,述作,講学に努め,また宗義の相承に五重相伝の法を定め,伝法制度を確立した。1415年(応永22)弟子聖聡の請により江戸小石川に移って小庵を結び,この地で没した。これが伝通院のはじまりである。彼は浄土宗が独立宗派としての内容外観を整え,教勢を挽回する基を築いたので,後世,浄土宗中興の祖と仰がれる。著書は30余部百数十巻に及ぶが,おもなものに《釈浄土二蔵義》30巻,《浄土二蔵二教略頌》1巻,《破邪顕正義(鹿島問答)》1巻,《観経疏伝通記糅鈔(にゆうしよう)》48巻,《選択伝弘決疑鈔直牒(じきてつ)》10巻などがある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「聖冏」の解説

聖冏

没年:応永27.9.27(1420.11.3)
生年:暦応4/興国2.10.15(1341.11.24)
室町前期の浄土宗の僧。浄土宗鎮西派の第7祖。眉間に三日月があったことから三日月上人と呼ばれる。父は常陸国(茨城県)岩瀬の城主白石宗義。父を戦乱で亡くし,8歳のときに瓜連常福寺の了実について出家した。浄土の法門を研鑽して,18歳で相模国(神奈川県)の定慧のもとに行き,宗戒両脈の相伝を受ける。のちに顕密,禅を学び,布教に尽力した。浄土宗を一宗として独立させるために,天台を真源に,真言を宥尊に,倶舎・唯識を明哲に,禅を月庵宗光,月察天命に,神道を治部大輔某に学び,新たな浄土宗学を確立した。浄土宗独自の伝宗伝戒である五重相伝を作り,同一の形式によって僧侶養成を可能とし,独立した宗派としての基盤を作った。また後世の檀林の基礎を築いた。晩年は,門下の聖聡に請われて,小石川の草庵に住み,講学述作につとめた。<著作>『釈浄土二蔵義』『浄土二蔵二教略頌』<参考文献>玉山成元『中世浄土教教団の研究』

(林淳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「聖冏」の解説

聖冏 しょうげい

1341-1420 南北朝-室町時代の僧。
暦応(りゃくおう)4=興国2年10月15日生まれ。浄土宗第7祖。蓮勝(れんしょう),定慧(じょうえ)にまなび,天台・真言・禅・神道などもおさめる。浄土宗学の確立と宗門の発展につとめ,五重相伝の法をさだめた。晩年は江戸の草庵(のちの伝通院)に隠棲した。応永27年9月27日死去。80歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。俗姓は白石。号は酉蓮社(ゆうれんじゃ)了誉。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「聖冏」の解説

聖冏 (しょうげい)

生年月日:1341年10月15日
南北朝時代;室町時代の浄土宗の僧
1420年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の聖冏の言及

【浄土宗】より

… 室町時代に入って,名越派は北関東から東北に,藤田派もまた東北に勢力をのばし,白旗派は関東を地盤としていた。白旗派の聖冏(しようげい)は,浄土宗が独立した宗派と認められていない状況を遺憾として,浄土宗に宗脈・戒脈の相承があることを明かし,五重相伝の法を定め,浄土宗の僧侶となるには必ず宗戒両脈を相伝しなければならぬと規定した。この伝法制度により,僧侶資格を同一形式で統一することができ,独立教団として発展していく基礎が固まった。…

【伝通院】より

関東十八檀林の一つで,増上寺と並ぶ江戸浄土宗の名刹。1415年(応永22)了誉聖冏(しようげい)が小石川極楽水に小庵を結び,無量山寿経寺と号したのが始まりで,聖冏を開山とする。その後戦火をこうむり衰廃していたが,1602年(慶長7)徳川家康の生母於大(おだい)の方が上洛中伏見で亡くなると,遺言により遺骸を当寺に移し,増上寺の中興源誉存応(ぞんのう)を導師として葬送の法会が行われた。…

※「聖冏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android