聖人伝(読み)せいじんでん

改訂新版 世界大百科事典 「聖人伝」の意味・わかりやすい解説

聖人伝 (せいじんでん)

キリスト教の聖人殉教者の伝記,事績を記した書物の総称。カトリック教会では厳密には聖人伝Vita sanctorum,Liber legendariusと殉教者伝Liber passionariusは区別されるが,《使徒行伝》中のステパノの殉教の次に古いスミュルナの司教ポリュカルポスの殉教1周年祭の記録(156)以来,殉教者,聖人の生涯を語り命日を祝う風習があった。各日にその日が命日である聖人を祝うためにメロギオンと呼ばれる殉教者録や,メナイオンと呼ばれる日付順の聖人の略伝集も古代から作られている。中近東からアフリカ,ヨーロッパと伝道が広がるにつれて教化に尽くした聖人の伝記も作られ,各地の伝承,民話も取り入れられていった。ローマでは3世紀ごろから殉教者を祭式として祭り,ミサに組み込まれることが盛んとなった。コンスタンティヌス帝とリキニウス帝によるキリスト教公認(ミラノ勅令,313)以後は殉教者以外の聖人もしだいに崇敬されるようになった。エジプトの修道士パウロス,アントニウスがまず対象となり,西方ではガリアに伝道したマルティヌス,アイルランドに渡ったパトリックらも加えられた。マルティヌスにはスルピキウス・セウェルスSulpicius Severus(360ころ-420ころ)やトゥールグレゴリウスによる伝記がある。教皇グレゴリウス1世には《イタリア教父についての対話》があり,中世に広く行われた聖人伝の一つとなった。メロビング朝時代には聖人伝は史的見地から離れて伝説を多く含むようになり,特にシリア,エジプトの聖人の伝記が多く西欧にもたらされた。カロリング朝時代には修道士による創作的伝記も盛んとなった。中世の聖人伝は歴史としての伝記を求めたのではなく宗教小説ともいえるものであり,この大成を13世紀の聖人伝集《黄金伝説》に見ることができる。

 聖人伝研究は,16世紀のプロテスタントからの批判の前に歴史的正確さを求める必要に迫られ,ここに聖人伝学hagiographiaが成立した。史料批判によって伝説と史実を峻別するこの学問は,17世紀のベネディクト会系の修道会,なかでもサン・モール会の学僧たちや,イエズス会のロスワイデHeribert Rosweyde(1569-1629)によって建設された。ロスワイデの仕事はイエズス会士ボランJean Bolland(1596-1665)に継承され膨大な《聖人伝集(アクタ・サンクトルム)》となり,現在もボランの名を顕彰するボランディスト協会によって研究が続けられている。この結果,長く信仰の対象であった聖人の実在が否定されることも多い。11月に祝日のあったバルラームとヨサファトの伝記は天正年間(1573-92)に日本訳(《サントスの御作業》)もあるが,釈迦伝であることが19世紀に判明し,教会暦から省かれたのがその一例である。
聖人
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「聖人伝」の意味・わかりやすい解説

聖人伝
せいじんでん
Acta Sanctorum

聖人の言行や生涯を記録した文書。殉教者行伝 Acta Martyrumを含む。殉教者行伝にはキプリアヌスの Acta Proconsularia,各種受難記 (イグナチオス殉教録,ポリュカルポス殉教録,リヨンの殉教者受難記,ペルペトゥアとフェリキタスの受難記など) があり,これらは伝説的修飾が少く,記述には信頼性がある。個々の殉難録を集成した最初の聖人伝は「教会史の父」と称されるカエサレアのエウセビオスの手になるものであるが,パレスチナの殉教者の部分 (シリア語訳) を除いて現存しない。近世ではベルギーのボランディスト (イエズス会士の刊行団体) による批判的編集"Acta Sanctorum" (1643) が有名。 (→黄金聖人伝 )

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