美馬(市)(読み)みま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「美馬(市)」の意味・わかりやすい解説

美馬(市)
みま

徳島県中北部にある市。2005年(平成17)、美馬脇町(わきまち)、美馬町、穴吹町(あなぶきちょう)、木屋平村(こやだいらそん)が合併、市制施行して成立。市名は旧郡名による。市の中央部北寄りを吉野川が東流する。市域は全体でみれば南北に長いが、吉野川の北岸では東西に長く、北端部を東西に走る讃岐(さぬき)山脈で香川県と境する。南岸部は南北に狭長で、南端近くに四国山地の主峰剣山(1955メートル)がそびえ、四国有数の清流穴吹川が貫流して吉野川に注ぐ。市域の約8割は山林で、集落・耕地は吉野川沿いの沖積平野におもに形成されるが、山間を縫って流れる各支流の谷底平野や山地の緩斜面にも散在。吉野川の南岸に沿ってJR徳島線、国道192号(伊予街道)が、北岸の讃岐山脈の南裾部を徳島自動車道が横断し、脇町、美馬の2つのインターチェンジがある。ほかに国道193号、438号が通じる。南部は剣山国定公園の指定域。

 郡里(こおざと)地区の河岸段丘先端にある段の塚穴(だんのつかあな)(国指定史跡)は太鼓塚(たいこづか)、棚塚(たなづか)の2古墳(いずれも古墳時代後期)からなる。両古墳に共通する横穴式石室は「段の塚穴型石室」とよばれ、分布がほぼ旧美馬郡域に限定される特異な石室である。段の塚穴の南西に位置する郡里廃寺跡(国指定史跡)は法起寺式伽藍配置をもつ白鳳期創建の寺院跡で、段の塚穴の存在とあわせて、郡里地区が古代における上郡(かみごおり)地方(吉野川の中・上流域にあたる旧三好郡・美馬郡地区)の中心地域であったと考えられる。南北朝時代、山間部の旧木屋平村地区(かつては麻植(おえ)郡に属していた)では、阿波忌部(いんべ)氏の一族という三木氏や平家の末裔を称する木屋平氏が南朝方として活動し、守護細川氏に抗った。戦国時代、岩倉(いわくら)城や脇城は細川氏にかわって台頭した三好氏の拠点となった。蜂須賀氏入部後、脇城は阿波九城の一つとして取り立てられ、城代稲田氏が現在の脇町市街の原形となる町割を行ったと考えられる。脇城は元和の一国一城令で廃城となるが、脇町は廃城後も阿波国中北部の商業・流通の拠点として繁栄した。

 江戸時代、平野部では米・麦作や葉藍の栽培が盛行し、山間部では葉タバコの栽培、木材の伐り出し、薪炭の生産、紙漉などが行われた。讃岐山脈には東から順に清水(曾江谷(そえだに))、相栗(あいぐり)、寒風(さむかぜ)、三頭(さんとう)、二双(にそう)などの峠がある。讃岐国との峠越えの交流は盛んで、昭和30年代まで続いた借耕牛(かりこうし)の風習(讃岐側の農家が農繁期に阿波国山間部の農家から牛を賃借する風習)もこれらの峠を利用して行われた。うち三頭峠は阿波国東部から讃岐金刀比羅(ことひら)への最短路で、参詣者も多く利用した。江戸期以来の郡里地区の和傘製造は近代に入って生産が拡大し、大正中期には岐阜県に次ぐ産地となったが、昭和30年代後半頃から衰退。現在は伝統工芸品として生産されている。

 現在の主産業は農林畜産業で、米作、蔬菜(そさい)栽培のほかにユズ、ブドウ、ハッサクなどの果樹、シンビジウムなどの花卉(かき)の栽培、養鶏などが盛ん。江戸時代、脇町には多くの藍商が店を構えていたが、明治30年代以降にアイ作が衰退して養蚕がこれに替わると、藍商の多くは繭の仲買、製糸業に転換した。現在も脇町市街には本瓦葺・大壁造の重厚な構えと装飾的な「うだつ」(隣家の境界に設けられた土造りの防火壁)を備えた特徴的な商家が多く残り、1988年(昭和63)に一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。「うだつの町並み」(江戸中期~昭和初期の85棟)を訪れる観光客も多い。徳島線の穴吹駅は剣山登山玄関口の一つで、穴吹地区・木屋平地区では剣山と清流穴吹川の自然を活用した観光開発にも力が注がれている。木屋平地区の三木家住宅は民家としては県内最古の江戸時代初期の建築と推定され、讃岐山脈南麓の典型的な民家である旧長岡家住宅(1979年に解体移築)とともに国の重要文化財に指定される。面積367.14平方キロメートル、人口2万8055(2020)。

[編集部]


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