絶海中津(読み)ぜっかいちゅうしん

精選版 日本国語大辞典 「絶海中津」の意味・読み・例文・類語

ぜっかい‐ちゅうしん【絶海中津】

室町初期の臨済宗の僧。別号蕉堅道人。勅諡、仏智広照国師浄印翊聖国師。土佐の人。夢窓疎石の法を嗣ぎ、のち明(中国)に渡って修行を重ね、宮中に法を説き、また、明の文人・詩人と交わって名を高めた。帰国後、足利義満尊信を得て相国寺などに住し、僧録司も兼ねた。義堂周信とともに五山文学双璧といわれる。著に詩文集「蕉堅藁」、「絶海和尚語録」。延元元(建武三)~応永一二年(一三三六‐一四〇五

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デジタル大辞泉 「絶海中津」の意味・読み・例文・類語

ぜっかい‐ちゅうしん【絶海中津】

[1336~1405]室町前期の臨済宗の僧。土佐の人。別号、蕉堅道人。夢窓疎石に学び、明に渡る。帰国後、足利義満に信任され、等持寺相国寺などの住持になる。義堂周信とともに五山文学の双璧といわれる。諡号しごう仏智広照国師・浄印翊聖国師。著「語録」「蕉堅稿」。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「絶海中津」の意味・わかりやすい解説

絶海中津
ぜっかいちゅうしん
(1336―1405)

室町初期の臨済(りんざい)宗夢窓(むそう)派の僧。五山学芸の代表的存在。蕉堅(しょうけん)道人と称する。土佐の人。初め天竜寺に入り、夢窓疎石(むそうそせき)に参じたが、のち建仁(けんにん)寺の竜山徳見(りゅうざんとくけん)(1284―1358)に従い、古林清茂(くりんせいむ)(1262―1329)の金剛幢下(こんごうとうか)の禅風を学んだ。1368年(正平23・応安1)入明(にゅうみん)し、季潭宗泐(きたんそうろく)(1318―1390)に参じ、絶海の号を受けた。明の太祖(朱元璋(しゅげんしょう))の問法に答えたことは有名である。1376年(天授2・永和2)帰国後、等持(とうじ)寺、相国(しょうこく)寺、南禅(なんぜん)寺に歴住し、鹿苑僧録(ろくおんそうろく)にも任じられた。応永(おうえい)12年4月5日、70歳で示寂。仏智広照(ぶっちこうしょう)国師、のちに浄印翊聖(じょういんよくしょう)国師と勅諡(ちょくし)された。

 義堂周信(ぎどうしゅうしん)と並んで五山学芸の双璧(そうへき)といわれ、五山文学の基礎をつくった。季潭の師、笑隠大訢(しょういんだいきん)(1284―1344)の『蒲室(ほしつ)集』の影響を受け、日本の四六文(しろくぶん)流行の先駆をなした。語録(1巻)のほか、詩集『蕉堅藁(しょうけんこう)』(2巻)がある。門下から鄂隠(がくいん)(1366―1425)、西胤(せいいん)(1358―1422)、用剛(ようごう)(1374―1446)などの逸材が出た。

[藤岡大拙 2017年8月21日]

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改訂新版 世界大百科事典 「絶海中津」の意味・わかりやすい解説

絶海中津 (ぜっかいちゅうしん)
生没年:1336-1405(延元1・建武3-応永12)

南北朝後期の代表的な五山文学僧。はじめ字を要関,諱(いみな)を中津といい,みずから蕉堅道人と称した。土佐国津野の人。13歳のとき夢窓疎石に参じ,ついにその法をついだ。建仁寺の帰朝僧竜山徳見,ついで大林善育に師事すること13年,さらに関東に学ぶこと数年に及んだ。ついで1368年(正平23・応安1)明に渡り,中天竺寺の季潭宗泐(そうろく)の門に参じて大恵派の大陸禅を学び,季潭から絶海の字を授けられて,76年(天授2・永和2)に帰国した。その間に英武楼に召されて,明の太祖の問法に奉答した話は有名である。帰国後に甲斐の恵林寺,さらに足利義満の帰依をうけて等持寺,相国寺,南禅寺に住し,僧録の業務をつとめて五山禅林を統轄した。1405年4月5日没。仏智広照浄印翊聖国師と勅諡(ちよくし)された。季潭から笑隠大訢の蒲室疏法をつたえて,五山文学における四六文流行の先駆をなし,義堂周信と並ぶ五山文学の双璧。著作に語録のほか詩文集《蕉堅稿》がある。
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百科事典マイペディア 「絶海中津」の意味・わかりやすい解説

絶海中津【ぜっかいちゅうしん】

南北朝,室町初期の五山の詩僧。土佐の人。蕉堅(しょうけん)とも号した。夢窓疎石の弟子。明に留学し帰国後,恵林寺,相国寺,南禅寺等に住し,僧録として五山禅林を統轄した。詩文集に《蕉堅稿》があり,義堂周信とともに五山文学の代表者。
→関連項目如拙

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「絶海中津」の解説

絶海中津
ぜっかいちゅうしん

1336.11.13~1405.4.5

南北朝期~室町中期の禅僧。別号蕉堅道人。義堂周信とともに五山文学の双璧とされる。土佐国生れ。父は津野氏。1348年(貞和4・正平3)晩年の夢窓疏石(むそうそせき)に参禅して法嗣となり,53年(文和2・正平8)建仁寺に移り竜山徳見(とっけん)の会下(えげ)に入る。68年(応安元・正平23)入明,季潭宗泐(きたんそうろく)の会下に入り,78年(永和4・天授4)帰朝。天竜寺春屋妙葩(しゅんおくみょうは)のもとに身をよせ,甲斐国恵林寺に移るが,83年(永徳3・弘和3)足利義満の招きで鹿苑院主となる。84年(至徳元・元中元)義満と衝突して諸国を流遇し,のち和解,等持寺・相国寺などに住した。98年(応永5)相国寺を退き鹿苑院塔主となり,僧録(そうろく)を掌る。諡号は仏智広照国師・浄印翊聖国師。著書「蕉堅藁(しょうけんこう)」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「絶海中津」の意味・わかりやすい解説

絶海中津
ぜっかいちゅうしん

[生]延元1=建武3(1336).11.13. 土佐,津野
[没]応永12(1405).4.5. 京都
南北朝~室町時代初期の臨済宗の僧,詩人。字は要関,蕉堅道人。諱は中津。 13歳で天竜寺に入って夢窓疎石に侍し,のち竜山徳見,さらに義堂周信,大喜法忻 (だいきほうきん) にも参じたが,正平 23=応安1 (1368) 年入明,季潭宗ろく (きたんそうろく) に参じて絶海の号を受け,天授2 (76) 年帰国した。一時足利義満の意に逆らい摂津銭原に隠れたが,のち等持寺,相国寺に住し,僧録にもなった。義堂とともに五山文学の双璧で,特に季潭の師笑隠大 訢 (しょういんだいきん) の蒲室疏法を伝えて五山文学における四六文流行の先駆をなした。語録のほか,詩文集『蕉堅稿』がある。死後,仏智広照国師,浄印翊聖国師の号を贈られた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「絶海中津」の解説

絶海中津 ぜっかい-ちゅうしん

1336-1405 南北朝-室町時代の僧。
建武(けんむ)3=延元元年11月13日生まれ。臨済(りんざい)宗。夢窓疎石(むそう-そせき)の法をつぐ。明(みん)(中国)に留学。足利義満の帰依をうけ,等持寺,相国寺の住持となり,僧録をつとめる。義堂周信とならぶ五山文学者。応永12年4月5日死去。70歳。土佐(高知県)出身。俗姓は津野。道号ははじめ要関。号は蕉堅(しょうけん)道人。諡号(しごう)は仏智広照国師,浄印翊聖(じょういんいきしょう)国師。詩文集に「蕉堅藁(こう)」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「絶海中津」の解説

絶海中津
ぜっかいちゅうしん

1336〜1405
室町初期の臨済宗の僧
土佐(高知県)の人。13歳で天竜寺に入り,西芳寺の夢窓疎石に学ぶ。詩文にすぐれ,義堂周信とともに五山文学の双璧とされる。のち明に渡り帰朝後も細川頼之・足利義満らに信任された。

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367日誕生日大事典 「絶海中津」の解説

絶海中津 (ぜっかいちゅうしん)

生年月日:1336年11月13日
南北朝時代;室町時代の臨済宗の僧;五山文学僧
1405年没

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世界大百科事典(旧版)内の絶海中津の言及

【漢詩文】より

…虎関師錬は一山一寧(いつさんいちねい)より学んだので,やや古風な作風を有するが,雪村は在元22年の長きにわたり,中国人の文脈句法を体得した人であり,中巌円月は在元の期間は雪村友梅ほど長くないが,その文脈句法の体得は雪村以上で,とくに四六文の学習に力を注いだ人である。 南北朝に入ってからは,義堂周信(ぎどうしゆうしん),絶海中津(ぜつかいちゆうしん),古剣妙快(こけんみようかい),中恕如心(ちゆうじよじよしん)などが出て,このうち義堂周信は入元しなかったがその作品の骨格はまったく中国人と同等なものを作りえて,中国人からさえ,その作品は中国人のものと誤られたほどであった。絶海中津は明の時代に入ってから渡海し,元代の人が偈頌(げじゆ)といって仏教臭のある詩体を好んで作ったのに対して,まったく士大夫風の俗体の詩文をよくし,また中巌円月についで,四六文の作成にいそしんだ。…

【土佐国】より

…他の国人領主層の外護した禅寺には大平寺(一条氏),細勝寺(細川氏),長林寺(津野氏),妙蓮寺(大平氏),雪蹊寺(長宗我部氏),浄貞寺(安芸氏),予岳寺(山田氏)などがある。文芸では五山文学の双璧とされる義堂周信,絶海中津,これを継いだ旭岑瑞杲(別号待雨)などがある。ただ南学の祖として喧伝される南村梅軒は,大高坂芝山の捏造(ねつぞう)した架空の人物である。…

【東津野[村]】より

…中世には,津野荘一帯に勢力を有した津野氏領の最奥の地で,当村から檮原町にかけては津野山郷と呼ばれた。五山文学の双璧と称される義堂周信絶海中津はともに津野氏の一族で,船戸の出身と伝える。津野山郷は紙や茶の生産が盛んで,江戸時代には土佐藩が商品生産物の統制を強化,藩指定問屋の不当に抗して1755年(宝暦5)津野山騒動が起こった。…

【留学】より

… ところが,明代になると,明国は倭寇対策のために,勘合貿易船のほかは日本からの渡航を禁止してしまった。このため,季潭宗泐(そうろく)などの新しい禅風を学ぶために元末に留学した絶海中津などの特例を除いては,それまでのような留学のための渡航はなくなり,遣明船の正使・副使などの諸役や従僧として明に赴いたものがほとんどであった。しかも,在留期間も遣明船が日本に帰るまでのわずか1,2年間に短期化され,名刹旧跡などの聖地巡礼の旅,すなわち観光上国が主要な目的になってしまった。…

※「絶海中津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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