絶対王政(読み)ぜったいおうせい(英語表記)absolute monarchy

改訂新版 世界大百科事典 「絶対王政」の意味・わかりやすい解説

絶対王政 (ぜったいおうせい)
absolute monarchy

ほぼ16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ諸国で,国王の権力が絶対的ともいわれるほど強力になったので,そのように強力な国王の支配する体制を絶対王政(または絶対王制)と呼び,イギリスエリザベス1世フランスのルイ14世などの治世がその代表的なものとされる。絶対主義absolutismというのもこれとほとんど同じ意味である。〈絶対〉という言葉はもともと,さまざまな拘束から解き放たれているという意味であり,したがって絶対王政の本来の意味は,国王がさまざまな国家機関や国法によって制約されることなく意のままに統治する体制,ということである。しかしながら,そのような意味での君主の専制支配がすべて絶対王政なのではない。すなわち,君主の専制支配は,広く古代から現代までさまざまなかたちで見られ,一般に専制政治ないし専制主義despotismと呼ばれているのであり,これに対して歴史的な用語としての絶対王政は,中世封建社会解体して近代市民社会が形成される過渡期という特定の時期において,一定の歴史的諸条件のもとで生み出された強力な国王の支配する体制を指し,したがって絶対王政は,広義の専制政治一般とは区別された特定の歴史的性格をもっている。

絶対王政の形成の端緒は,中世末期における封建的支配者層の衰退に乗じた王権の伸張であった。14~15世紀のヨーロッパでは,戦乱と疫病によって農村が荒廃し,封建社会の基礎をなす領主層の収入が減少するとともに,領主と農民との対立が激化して,フランスのジャックリーの乱やイギリスのワット・タイラーの乱のような大規模な農民一揆も発生し,領主の支配権が弱体化した。同時に,百年戦争やばら戦争によって大貴族の多くが没落し,また火器の使用や傭兵隊の利用によって騎士の没落が著しくなった。こうして弱体化した封建的支配者層は,封建的反動と呼ばれるその地位の再強化を試みたが,その場合,個々の力では農民の反抗をおさえて領地の支配を維持することができなかったから,最高の貴族たる国王に政治的支配権をゆだね,その代りに,貴族としての身分的特権(免税特権など)や領主としての諸権利(農民からの年貢徴収権など)を国王によって保障してもらうほかはなかった。このような封建的支配者層の衰退に乗じて国王がその権力を強化しようとしたとき,都市と商業の発展によってしだいに有力になりつつあった大商人たちは,その商業活動を展開するためには広域的で統一的な支配体制の方が有利であったから,国王による国内の統一と中央集権化を支持した。とくに16世紀以降,新航路の発見による海外貿易が急速に発展すると,大商人たちは海外市場をめぐる争いに勝つためにも強力な国家権力を必要としたから,その商業活動を王権によって保護してもらい,その代りに,国王の必要とする資金や有能な官僚を提供して,王権の有力な支持基盤になった。

 同じころ,従来の封建的な権力の分散状態に代わる統一的な最高権力としての主権の観念が成立したことや,宗教改革によってローマ教皇の普遍的な権威が失われたことも,王権の強化にとって有利に作用した。そして,拡大された世界市場における商業的覇権をめぐって,またヨーロッパ内部での政治的覇権をめぐって,16世紀以降,諸国家相互間の激しい闘争が展開されたことは,各国における王権の強化をさらに増幅させるものであった。こうして絶対王政は,貴族と大商人とがそれぞれの立場で王権の強化を容認ないし支持したことを基礎とし,国際的な対立抗争を背景として,16~18世紀のヨーロッパに成立した。

絶対王政は,封建社会における権力の分散状態を克服して,主権者たる国王のもとに権力を集中し,国内を統一して官僚行政機構や常備軍などを整備したから,その限りで,近代国家の形式を整えることができた。しかしながら絶対王政の支配秩序の実質は,なおいまだ近代的なものとはいえない。なぜなら絶対王政のもとにおいては,直接生産者たる農民に対する領主の支配(領主制)が依然として維持され,その基礎の上に国王を頂点とする身分制的階層秩序が構築されていたのであり,その国家権力は,平等な基本的人権を認められた近代市民を基礎とするものではなかったからである。とくに絶対王政のもとでは,聖職者,貴族,平民といった旧来の身分制が維持されたのみならず,それぞれの身分の内部はさらに職能などによるいくつもの団体(社団)に細分され,それらの団体はさまざまな特権によって互いに区別されていた。国王は,それらの団体が特権をめぐって相互に対立・反目しているという状態を利用して王権を強化したのである。このような特権に基づく身分制的(社団的)編成が維持されている限り,国民的統一は達成されず,公権力の分散状態を克服する手段であるはずの官僚行政機構においても,官職そのものが一つの特権として売買や世襲の対象になったから,絶対王政は近代国民国家の実質を備えることができなかった。

 他方,絶対王政はいわゆる重商主義政策によって商工業を保護育成したから,その限りで近代資本主義の形成を助長したともいわれる。しかしながら絶対王政下の重商主義政策は,王権の支持基盤としての大商人たちの団体に独占権などの特権を与え,商工業を厳重な統制と大商人の独占的支配とのもとに置こうとするものであったから,産業の自由な発展をかえって阻害するものであり,農村工業などを基盤にして成長しつつあった中小商工業市民層の利害とは対立するものであった。こうして,絶対王政の歴史的性格は,封建社会の解体のうえに立ちながらも,なお近代社会に立脚するものではなく,そのような意味で過渡的な性格をもつものであった。したがって絶対王政の末期には,特権に基づく身分制秩序や大商人による商工業の独占的支配などを排除しようとする近代市民階級の反抗が強まり,それが,領主制に反抗する農民の動きなどと結びついて,市民革命となって絶対王政を倒すにいたるのである。

ヨーロッパで絶対王政と見られているのは,16世紀のスペイン,16~17世紀のイギリス,17~18世紀のフランス,18世紀のプロイセンオーストリアなどである。16世紀のスペインでは,カルロス1世とフェリペ2世のもとで王権が伸張し,植民地から流入する富によって空前の繁栄が見られたが,国内では旧来の封建的な貴族の勢力が強かったため,絶対王政は未熟なままにとどまり,17世紀に国力が衰微するとともに王権も衰えた。

 イギリスでは,チューダー朝と前期スチュアート朝のもとで絶対王政が展開した。イギリス絶対王政は,大貴族の力をおさえ,星室庁や枢密院などの機構を強化し,国王みずからを首長とする英国国教会の制を設け,修道院を解散するなど,王権の強化に努め,さらに大商人に独占権を与えて財政を整えた。だが常備軍が設けられず,官僚制も未発達で,地方行政はもっぱら在地の名望家の手に任せられ,議会も存続していた。このようにイギリス絶対王政が制度のうえで弱体であるように見えるのは,征服王朝に由来するイギリスの王権がすでに中世以来強力であったために新しい制度を設ける必要がなく,また,島国であるために外敵の脅威を受けることが少なかったことによると考えられている。

 フランスでは,16世紀の内乱(宗教戦争)のため絶対王政の成立が遅れたが,同世紀末からのブルボン朝のもとで,リシュリューやマザランのような強力な宰相やコルベールのような有能な財務総監に補佐されて,典型的な絶対王政が展開した。強力な常備軍を備え,国王の命によって各地に派遣される地方長官をはじめとする官僚行政機構を整備し,カトリック教会の機構を利用して全国の戸籍を整え,イギリスの議会に相当する全国三部会を17世紀初めから革命まで召集しないなど,王権による中央集権的な体制の強化に努め,さらに,重商主義政策に基づく商工業の保護育成と租税制度の整備とによって国庫収入の増大を図った。このようにフランスの絶対王政は制度のうえで最も整えられた姿を示したが,そのフランスでも王権は地方三部会や高等法院などによって制約されていた。つまり王権の〈絶対〉性は,どこにおいても一つの理念にとどまったのである。なお,18世紀になってから成立したプロイセンやオーストリアの絶対王政は,啓蒙絶対主義というかたちをとった。またロシアの絶対王政についてはその始期と終期について異論が多く,日本の明治国家も絶対王政と見ることができるか否かについて意見は分かれたままである。
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百科事典マイペディア 「絶対王政」の意味・わかりやすい解説

絶対王政【ぜったいおうせい】

絶対王制とも。16―18世紀,封建制国家から近代国家への過渡期にヨーロッパに現れた政治形態。〈絶対主義〉もほぼ同じ意味で使われる。国王は中央集権的統治のための官僚と直属の常備軍を支柱とし,弱体化した貴族階級と資本の本源的蓄積期にあるため未発達な市民階級とを押さえ,無制約の権力を振るった。多くの場合,王権神授説を援用して王権を強化し,重商主義を経済理論とした。エリザベス1世(英国),ルイ14世(フランス),フリードリヒ2世(プロイセン)らの時代に頂点に達したが市民革命で崩壊。→啓蒙絶対主義
→関連項目高等法院身分制議会身分制国家ユンカー

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旺文社世界史事典 三訂版 「絶対王政」の解説

絶対王政
ぜったいおうせい

絶対主義

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世界大百科事典(旧版)内の絶対王政の言及

【古典主義】より

…1637年初演のP.コルネイユの悲喜劇《ル・シッド》をめぐるアカデミー側と作者側の規則論議(いわゆる〈ル・シッド論争〉)は,40年代のコルネイユ自身の〈規則にかなった悲劇〉(《オラース》《シンナ》《ポリュークト》)の制作と成功によって,実践の領域へと超えられていく。もっとも絶対王政成立にとって最も大きな試練であったフロンドの乱の前後には,リシュリューの後を継いだイタリア人の宰相・枢機卿J.マザランによるイタリア・オペラの導入をはじめ,バロック的なものが隆盛を誇る。1657年刊のドービニャック師François Hédelin,Abbé d’Aubignac(1604‐76)の《演劇作法Pratique du théâtre》は古典主義の規範文書となるが,それに対する反論としてコルネイユは3編の論考を書き(《劇詩論》《悲劇論》《三統一論》),実作者の立場から規則議論を活かそうとした。…

【ピューリタン革命】より

…ことに女王が〈中道〉政策をとって英国国教会を確立させ,また基幹産業である毛織物の市場を確保するためにスペインに対抗する政策をとり,1558年来襲したその無敵艦隊を撃退したことによって,国民の間に自信が高まっていた。しかるに絶対王政とはいうものの王権の側には常備軍ならびに地方統治にあたる有給の官僚組織をもたないという弱点があった。一方,宗教改革への協力を通して議会の庶民院はしだいに発言力を強め,議員の選出母体で治安判事として地方行政を担当していたジェントリー(ジェントルマン)層が貴族に代わって台頭してきた。…

【ヨーロッパ】より

…ブルジョアジーは,一方で,その商業活動により,国家に富をもたらすと同時に,他方では,その支配体制を整備・強化しようとする王権に,有能な行政官や司法官を供給することになる。こうして,新しい時代の要請のなかで,16世紀以来,ヨーロッパ諸国には,絶対王政の名で呼ばれる独特の国家体制が生まれる。 新大陸からの富を背景とするスペインをはじめとして,イギリスはばら戦争の内乱を克服してチューダー朝,次いでスチュアート朝の成立をみ,フランスもまたバロア朝末期,宗教戦争の激しい抗争を経て,ブルボン絶対王政を生んだ。…

※「絶対王政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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