細川頼元(読み)ほそかわよりもと

日本大百科全書(ニッポニカ) 「細川頼元」の意味・わかりやすい解説

細川頼元
ほそかわよりもと
(1343―1397)

南北朝から室町前期の武将。幕府管領(かんれい)。細川頼春(よりはる)の四男で兄頼之(よりゆき)の養嗣子となる。初名頼基。右京大夫(うきょうだいぶ)に任官し、以後細川惣領家は代々この官途を世襲し、京兆家(けいちょうけ)と呼ばれる。頼元は管領頼之を補佐し、康暦(こうりゃく)の政変により頼之とともに四国に下ったが、1381年(永徳1)赦(ゆる)されて上洛、1391年(明徳2)頼之の後見の下で幕府管領となる。明徳(めいとく)の乱の鎮定に功をあげ、京兆家が摂津丹波讃岐・土佐守護を世襲する基を開いた。1393年管領を辞し、1397年(応永4)病没

小川 信]

『小川信著『足利一門守護発展史の研究』(1980・吉川弘文館)』

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朝日日本歴史人物事典 「細川頼元」の解説

細川頼元

没年:応永4.5.7(1397.6.2)
生年康永2/興国4(1343)
南北朝・室町時代の武将。幕府管領。初名頼基。頼春の子で兄頼之の養嗣子。細川宗家の当主幼名を聡明丸と称し,右京大夫の官途を踏襲して京兆家と呼ばれるのは頼元に始まる。頼之の命で,南朝より帰順した楠木正儀を助けた。応安6/文中2(1373)年ごろより摂津守護を務め,紀伊へ発向するなど南朝軍と最前線で戦う。康暦の政変により頼之と共に四国での雌伏を余儀なくされるが,明徳2/元中8(1391)年には幕府管領となり,明徳の乱の鎮圧,南北朝の合体など室町幕府の安定を図った。しかしその存在は頼之を補佐し,細川家の遺産を次代に伝えるという黒子的存在であった。

(小林保夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細川頼元」の解説

細川頼元 ほそかわ-よりもと

1343-1397 南北朝-室町時代の武将。
康永2=興国4年生まれ。細川頼春(よりはる)の子。兄細川頼之(よりゆき)の養嗣子。右京大夫(だいぶ)となり,以後細川家惣領が右京大夫の官途を踏襲。同家は京兆家(けいちょうけ)とよばれる。南朝方から幕府方に転じた楠木正儀(まさのり)を救援。応安6=文中2年ごろから摂津守護。明徳2=元中8年管領(かんれい)となり,明徳の乱を鎮定した功により,丹波守護などをかねた。応永4年5月7日死去。55歳。通称は三郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「細川頼元」の意味・わかりやすい解説

細川頼元
ほそかわよりもと

[生]興国4=康永2(1343)
[没]応永4(1397).5.7.
南北朝時代の武将。頼春の子。幼名,聡明丸。通称,三郎。兄頼之の養嗣となって細川家の惣領となった。北朝軍に投降した楠木正儀を援助したり,紀伊の南朝軍を討つなどの軍功をあげ,元中8=明徳2 (1391) 年管領に就任。和歌をよくし『新後拾遺和歌集』『新続古今和歌集』に入集している。

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