細井広沢(読み)ほそいこうたく

精選版 日本国語大辞典 「細井広沢」の意味・読み・例文・類語

ほそい‐こうたく【細井広沢】

江戸中期の儒者書家。遠江掛川の人。名は智慎(ともちか)。字は公謹。通称次郎太夫。江戸に出て板井伯元に朱子学を学び、北島雪山に書法を受けた。後、林鳳岡に入門する。書にすぐれ、撥蹬法という執筆法を主張し、篆刻の革新などを行なう。柳沢吉保に仕え、全国の社寺をつかさどり、水戸家では「万葉集研究」に関わり、幕府に仕えて慶長以来の条制編集に携わった。著「筆法釈名」「紫薇字様」「撥蹬真詮」。万治元~享保二〇年(一六五八‐一七三五

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デジタル大辞泉 「細井広沢」の意味・読み・例文・類語

ほそい‐こうたく〔ほそゐクワウタク〕【細井広沢】

[1658~1736]江戸中期の儒学者・書家。遠江とおとうみの人。名は知慎ともちか朱子学陽明学を修め、また、唐様書道を広めた。柳沢吉保に仕え、歴代天皇陵の修築に尽力。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「細井広沢」の意味・わかりやすい解説

細井広沢
ほそいこうたく
(1658―1735)

江戸中期の儒者。旧姓は辻(つじ)。30歳以後、本姓の細井に復する。名は知慎(ともちか)、字(あざな)は公謹(こうきん)。通称は弁庵、次郎太夫(じろうだゆう)。広沢は号。別名は菊叢(きくそう)、思貽斎(しいさい)、蕉林庵、玉川、奇勝堂。万治(まんじ)元年遠江(とおとうみ)国(静岡県)掛川(かけがわ)に生まれる。父玄佐は掛川藩、のち明石藩に仕える。1668年(寛文8)江戸に出て坂井漸軒(さかいぜんけん)に入門。初め朱子学を学び、のち陽明学に転ずる。また、北島雪山(きたじませつざん)に明(みん)人兪立徳(ゆりっとく)の書法を伝えられる。馬喰(ばくろう)町(東京都中央区)に居住し、家塾を開く。1693年(元禄6)柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の儒臣となり、200石を与えられる。鉄砲組の組頭(くみがしら)をも勤める一方、所在不明の諸陵の探索・復旧に尽力。約10年後、致仕。享保(きょうほう)年間(1716~1736)幕府の百人組の同心に任用され、とくに本務を免ぜられて幕府法制の編集に従った。享保20年12月23日没、78歳。武蔵(むさし)国荏原(えばら)郡等々力(とどろき)村(東京都世田谷(せたがや)区)の真言(しんごん)宗致航山(ちこうざん)満願寺(まんがんじ)に葬られる。広沢は書家として著名であり、絵画和歌、兵学、剣槍弓馬、拳法(けんぽう)、天文測量に通じ、とくに検地の法に熟達した。著書に『諸陵周垣成就記(しょりょうしゅうえんじょうじゅき)』『奇勝堂筆余』『筆法釈名』『秘伝地域図法大全書』(1717)などがある。

[三宅正彦 2016年7月19日]


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朝日日本歴史人物事典 「細井広沢」の解説

細井広沢

没年:享保20.12.23(1736.2.4)
生年:万治1.10.8(1658.11.3)
江戸前・中期の儒者,書家。名知慎,字公謹,通称次郎太夫,広沢と号し,思貽斎,奇勝堂など多くの別号がある。遠州掛川(静岡県掛川市)生まれ。初め辻弁庵と名乗り医を志した。若年より江戸で坂井伯元,林鳳岡に学び朱子学を専らとし,書は北島雪山に唐様の撥鐙法を授かった。篆刻もよくする。元禄初期,側用人柳沢吉保の家臣として仕え,将軍徳川綱吉の経書講義に列しながら同家の儒臣荻生徂徠,志村楊州らと交流。この時期,諸天皇陵の荒廃を嘆き修理を敢行,また武備や測量術にも数々の新たな試みを行う。しかし元禄15(1702)年5月,名剣獅子王を松平右京大夫へ進上する一件であらぬ疑惑を受け,柳沢家を致仕。深川に隠棲してのち,宝永年中に水戸家に約1年間のみ勤仕し『万葉集』注釈に携わった。再び浪人生活を続ける傍ら,享保初年の朝鮮通信使返翰の書と印を製するなど幕府の御用で筆や鉄筆を揮うこと多く,享保9(1724)年5月には幕府与力として抱えられる。性豪放磊落,武技に秀でた。堀部安兵衛とは無二の親友で,赤穂義士討入の際は終夜屋根から状況を窺っていたという。文事においても唐様の鼓吹のみならず吉原を題材に詩を詠じたり(「武江竹枝歌」),徂徠学全盛期にあってもその時流にとらわれぬ柔軟性客観性を備えていた。法帖も多い。門生に平林惇信,関思恭,三井親和などがいる。<著作>『紫薇字様』『観鵞百譚』『奇文不載酒』<参考文献>三村清三郎「細井広沢」(『三村竹清集』4巻),森銑三「細井広沢」(『森銑三著作集』4巻)

(宮崎修多)

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改訂新版 世界大百科事典 「細井広沢」の意味・わかりやすい解説

細井広沢 (ほそいこうたく)
生没年:1658-1735(万治1-享保20)

江戸中期の儒者,書家。名は知慎(ともちか),字は公謹,次郎太夫と称し,広沢は号。遠江に生まれ,江戸に出て林信篤の門に入り,柳沢吉保に仕え,近習鉄砲頭として幕府にも出仕した。儒学のほか兵学や和歌,絵画に通じ,天文,測量,算数にも明るく,とくに書家として世上に知られる。書は20歳で北島雪山を知り,明の兪立徳(ゆりつとく)ゆずりの撥鐙(はつとう)法,文徴明以来の書法の正統を授かり,唐様書道の基礎を確立した。また篆(てん)学を究め,篆刻に長じてその革新を図った。《二老略伝》に詳しい伝記がある。《紫微字様》《撥鐙真詮》《観鵞百譚》など多くの著作を遺している。その門下からは平林淳信,関思恭,三井親和などが出,その書風は一世を支配したといえる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「細井広沢」の意味・わかりやすい解説

細井広沢
ほそいこうたく

[生]万治1(1658).10. 遠州,掛川
[没]享保20(1735).12.23. 江戸
江戸時代中期の儒者,書家。名は知慎 (ともちか) ,字は公謹,通称は次郎太夫。号は広沢,思貽斎,蕉林庵,玉川奇勝堂。江戸に出て医を業とするかたわら北島雪山に書法を,林鳳岡 (ほうこう) に儒学を学んだ。書に最もすぐれ,師の雪山とともに江戸時代の唐様の代表的書家。また柳沢吉保に重用され建言して荒廃していた歴代御陵の修復にも尽した。主著『詩牌譜』『紫微字様』『奇文不載酒正編』。主要作品は『西湖十景』 (1720,東京国立博物館) ,『飲中八仙歌,七詁詩』 (24) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細井広沢」の解説

細井広沢 ほそい-こうたく

1658-1736* 江戸時代前期-中期の儒者,書家。
万治(まんじ)元年10月8日生まれ。江戸で儒学を林鳳岡(ほうこう)に,唐様の書法を北島雪山にまなぶ。篆刻(てんこく)にもすぐれた。柳沢吉保(よしやす)の儒臣となり,のち幕府に出仕。兄芝山(しざん)の影響で陵墓修復を吉保に建言した。享保(きょうほう)20年12月23日死去。78歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。名は知慎(ともちか)。字(あざな)は公謹。通称は次郎太夫。別号に思貽斎など。著作に「紫微字様」など。

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367日誕生日大事典 「細井広沢」の解説

細井広沢 (ほそいこうたく)

生年月日:1658年10月8日
江戸時代前期;中期の儒者;書家
1736年没

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世界大百科事典(旧版)内の細井広沢の言及

【書】より

北島雪山は医を志して長崎におもむき,ここで明人兪立徳(ゆりつとく)から明代の文徴明の筆法を初めて授けられ,江戸時代の唐様の先駆として迫力ある大字作品を書いている。その門下細井広沢は江戸において唐様発展に力を尽くし,唐様の基本的な著述をも出した。江戸時代は幕府が儒学を奨励したため多くの儒学者が輩出し,唐様は儒者の間に行われ,和様は国学者に用いられた。…

【筆】より

…一方では庶民教育としての寺子屋が普及するとともに,簡便低廉な〈椎の実筆〉〈勝守〉など手習用の筆が大量に生産された。元禄期の唐様書家細井広沢(こうたく)は《思貽斎管城二譜(しいさいかんじようにふ)》を著し,所蔵の唐筆や自己の体験をもとに製筆法を説き,唐様の無心筆を考案した。 幕末の市河米庵(べいあん)も蔵筆200余枝の図録《米庵蔵筆譜》(1834)をはじめ,《米庵墨談》正・続,《小山林堂書画文房図録》などを刊行し,文房具に関する研究を深めた。…

※「細井広沢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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