紙パルプ工業(読み)かみパルプこうぎょう

改訂新版 世界大百科事典 「紙パルプ工業」の意味・わかりやすい解説

紙・パルプ工業 (かみパルプこうぎょう)

新聞用紙や印刷用紙,ティッシュペーパーといった生活関連需要を満たす洋紙と,段ボール箱などの産業用包装資材の原紙となる板紙,および両者の原料であるパルプを供給する工業をいう。パルプを原料として各種紙類を生産する産業を製紙業ないし製紙工業という。

パルプ生産はアメリカが世界の1/3余りを占め,2位のカナダを加えると北アメリカで世界生産の半分を占める。日本は中国に次ぎ4位である。カナダが最大の輸出国で,ほかにアメリカ,スウェーデンフィンランドが主要輸出国である。輸入はアメリカ,ドイツ,日本,フランスが多い。また日本はパルプ材の輸入依存度が1960年代後半から急速に高まり,現在では使用量の半分にも達している。地域別では,針葉樹は北アメリカ,広葉樹はオセアニアからが大半を占める。紙類(板紙を含む)生産もアメリカが約3割を占めて1位,日本,中国,カナダ,ドイツと続く。1人当りの紙類消費量(文化のバロメーターともいわれる)はアメリカが断然多く,フィンランド,ベルギーが続き,日本もその次のグループで比較的多い。

 日本における紙類(紙,板紙)生産量3001万tの内訳をみると,紙が59.2%,板紙が40.8%となっている。紙のなかでは印刷・情報用紙(紙類全体の60.8%),新聞巻取紙(同17.7%)が多く,板紙では段ボール原紙(同73.9%)が大半である(1996)。

日本における洋紙生産は,旧広島藩主浅野長勲が中心となって東京日本橋に1872年(明治5)設立した有恒社(1924年王子製紙に併合)が1874年6月に製造したのが最初である。75年には,後藤象二郎らの経営する蓬萊社(後藤が製糖の目的で1872年設立)が大阪で製紙工場を開業し,東京では林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で設立した三田製紙所が開業した。また1873年には渋沢栄一らが〈抄紙会社〉(のちの王子製紙)を設立し,苦心の末75年7月に操業を開始している。このような民間洋紙製造会社の創立・開業に対して,官営製紙事業は74年に得能良介が大蔵省紙幣寮寮頭に任ぜられたときに立案され,75年に抄紙局によって東京王子に官営製紙工場の建設が始まり,翌76年に完工した。これが翌77年印刷局抄紙部となり,79年には最初の国産抄紙機を据え付け,印刷用紙を生産し市販した(それまでは手すきであった)。この官営製紙工場は技術水準が高く,製造コストの面でも優れていたので,民間製紙業は圧迫され,85年に民間5社は政府に印刷用紙市販停止を嘆願したが,いれられなかった。ともあれ,こうして創業期における洋紙の供給体制はいちおう整った。一方,洋紙市場は1870年代半ばの新聞ブームと雑誌の創刊によって形成され,80年には製紙会社,洋紙販売店が集まって日本製紙連合会が発足し,業界の態勢が整った。しかし製紙技術は欧米諸国に比べて低かった。そこで製紙技術を修得するため渋沢は王子製紙に就職した女婿の大川平三郎をアメリカに派遣し,大川は80年10月の帰国後直ちに稲わらパルプの製造に着手して成功した。84年には木材パルプ技術を修得するため再び欧米を訪れ,帰国後の88年,天竜川上流の気田に木材パルプ工場(王子製紙気田工場)の建設に着手,90年操業を開始した。また同年,富士製紙の入山瀬工場が日本初のグランドパルプ製造に成功した。これにより,日本でも木材パルプによるマスプロ方式の技術導入がなされたわけである。

 日清,日露の両大戦間を通じ,新聞・雑誌用紙需要は急速に増加しつづけた。王子,富士の両大手メーカーの競争は激しさを増し,両社は安価な原木資源を求めて北海道へ進出した。王子は苫小牧工場を建設し,富士は北海紙料(のちの富士製紙釧路工場)を買収するとともに江別工場を建設した。こうして北海道は日本の紙・パルプ工業の中心地となった。その後も,製紙メーカーは安価な原木資源を求めつづけ,樺太(サハリン)に進出した。1913年6月に三井合名会社は大泊(現,コルサコフ)に亜硫酸パルプ工場を建設し,同年12月に大川平三郎が設立した樺太工業は泊居(現,トマリ),真岡(現,ホルムスク),恵須取(現,ウグレゴルスク)に工場を建設して,パルプから紙まで手がけた。15年11月に小池国三が設立した日本化学紙料会社は落合(現,ドリンスク)に工場を建設したが,のちに富士製紙がこれを吸収しクラフト紙の大量生産を開始した。そして,王子製紙は,三井合名の大泊工場を買収し,16年に豊原(現,ユジノ・サハリンスク)工場,22年には野田(現,チェーホフ)工場を建設した。このころの景気動向は,第1次大戦以来の未曾有の景気拡大の反動から,大不況に襲われて商品市況は急激に悪化するという状況だった。紙・パルプ工業でも中小企業が整理・統合され,企業再編成が進んだ。26年には,吸収・合併の中核となった王子,富士,樺太工業の3社の生産高合計は全国生産高の85%を占めるにいたった。しかし,27年に世界的大恐慌が起こると,海外製紙メーカーの対日ダンピングが始まり,3社の販売競争がさらに激化,収益性の悪化を招いた。そのため,紆余曲折を経ながらも,王子,富士,樺太工業の3社は33年5月に合併し,資本金1億5000万円,日本の洋紙生産量の80%以上を支配する王子製紙が新たに誕生した。この合併により,日本の紙・パルプ工業は王子製紙の独占体制が確立し,安定期を迎えた。37年に日中戦争が勃発すると,紙・パルプ工業も戦時統制下に置かれ,38年9月には物品販売価格取締規則に基づいて,洋紙および和紙の最高価格が指定された。40年12月には洋紙配給統制規則に基づき,大小の製紙メーカー56社の出資によって洋紙共販株式会社が設立された。42年9月には,原材料や電力,労働力などの有効活用と軍需工場への転換を目的として,製紙工業整備要綱が通達され,中小製紙メーカー380社が合同の対象とされた。この結果,紙の生産高は低下しつづけ,44年には62万6000tと戦前ピーク時(1940)の半分にも満たないほどに落ち込んだ。

 第2次大戦後は,GHQが日本経済の民主化を打ち出して財閥解体と経済力集中排除政策を推進した。紙・パルプ工業においても,市場を独占した王子製紙が,過度経済力集中排除法によって49年8月に苫小牧製紙(のちの王子製紙),十条製紙(93年,日本製紙と改称),本州製紙(96年,王子製紙と合併)の3社に分割された。一方,日本の紙・パルプ工業は,主力工場の集中していた樺太をはじめ朝鮮,満州(中国東北区)にあったすべての在外資産を失った。戦後しばらく続いた生産の低迷も,50年6月に勃発した朝鮮戦争を契機とする特需景気によって,製紙工場もフル操業を始めた。製紙メーカー各社はいっせいに設備の増強に動き,生産高も増加して53年には176万2000tに達し,戦前水準を回復した。この間,販売競争が激化し,設備拡張競争が起こったが,これは安定勢力を失ったためであるが,国策パルプ工業(創立1938年6月,72年山陽パルプと合併し山陽国策パルプに,93年,十条製紙と合併し日本製紙となった),大昭和製紙(同1938年9月)といった新興企業が台頭し,紙の生産は戦前の集中から分散へと向かった。また,紙の生産高増加にともなって,原木の入手が難しくなった。製紙メーカーは,従来パルプ材として使われていなかった広葉樹をパルプ化する技術を開発して切り抜けたが,現在ではパルプ材の約50%が広葉樹となっている。また原木不足を補うため60年代後半から海外投資を積極化させ,海外でのチップ工場の建設や造林事業を始めた。ビッグプロジェクトとしては,ブラジルとの日伯プロジェクト(合弁会社セニブラ社のパルプ工場は1977年9月完成)が有名であり,また東南アジアでの造林事業,開発輸入(先進国が技術・資本を提供して発展途上国の商品生産を助成し,その商品を輸入するもの)も活発である。製紙メーカーは,チップ専用船を保有して輸送効率を改善するとともに,工場を内陸立地から臨海立地に変え,工場の規模を大型化した。しかし長期的には木材資源不足が予想され,日本の紙・パルプ製品の国際競争力は低下しよう。また,資源再利用,パルプ価格に比しての割安さなどから,古紙使用量が増加している。日本の古紙回収率は世界最高水準にあるが,今後も脱墨設備の増設やホットメルト(製紙用のり)処理方法の開発などにより,古紙使用量はますます増加していくものと思われる。

第1は,紙・板紙製品は,特定規格の製品に関するかぎり,製紙メーカー間に紙質の差がほとんどみられないことである。これは,製紙技術が比較的単純で製紙メーカー間の技術格差があまりないためである。したがって製品の差別化が行われにくいのみならず,自社の設備を多少手直しすることで,他社の生産品目の生産を始めることも比較的容易である。これを転抄(抄紙品目の変更)という。第2は,紙・板紙は需給動向によって価格が大きく左右される,いわゆる市況商品だということである。紙・板紙の多くは鉄鋼,アルミニウム,石油化学製品などと同様に素材として使われ,それに印刷や製袋,製箱などの加工が施されて初めて最終ユーザーの手元に届く。紙・板紙総需要に占める中間需要の割合は97%と非常に高い。それゆえ紙・板紙需要はユーザー業界の需給動向に大きく左右されるのである。第3は,紙・板紙の製品規格数をサイズ(断裁寸法),坪量(一定面積当りの重量,g/m2)の別にみると,標準規格だけでも25万種以上あることである。原紙ベースでも,紙・板紙の品種は通常の分類で50種類以上である。このように品種数が多いのは出版業,印刷業といった需要業界のニーズを反映させたためである。つまり製紙メーカーは多品種少量生産を余儀なくされている。そのため,製紙メーカーは抄紙機の製造品種を再三変え,しかも各品種の生産量が少ないので,その切替作業に多大の時間と労力を要し,抄紙機の稼働率が低下するのである。

このような紙・板紙の製品特性を背景に,1955年以降,紙・パルプ工業は競争的な市場環境のなかで,設備拡張競争→供給過剰→市況低下→(協調減産)→在庫調整→市況回復→設備拡張競争というパターンを繰り返してきた。これは,(1)販売シェアへの固執,(2)転抄の容易さ,(3)市場規模に比べ抄紙機の最小最適生産能力が過大であること,などの要因が働いたことによる。しかし今後,原材料やエネルギー価格の趨勢的上昇,国際的な原材料手当ての困難化,国際競争力の低下による収益の悪化といった問題が起こることが予想され,製紙メーカーは,業界の体質となった行き過ぎた設備拡張競争や販売競争を慎み,これらの問題に対処していく必要がある。

執筆者:

紙・パルプ工業は不純物の多い多量の有機物を化学的・物理的に処理するため,適切な公害防止技術が採用されない場合には深刻な被害を発生する。問題となる可能性があるのは,(1)原料チップの貯蔵ヤードから飛散する木粉およびチップ,(2)蒸解(〈パルプ〉の項参照)用薬液の製造工程から発生する亜硫酸ガス等による大気汚染,(3)蒸解工程からの悪臭,(4)蒸解廃液による水質汚濁,(5)製紙工程廃液による水質汚濁,(6)各種熱源による大気汚染,などであるが,これらはいずれも防止可能なものである。すなわち,(1)はヤードをネットで囲い散水する,(2)は装置の適正な稼働,(3)は排ガスの焼却処理,(4)は廃液からの薬品回収と濃縮焼却処理,(5)は各種の分離技術の利用,(6)は一般的な大気汚染防止技術の採用により,ほぼ防止できる。

 紙・パルプ工業による公害事件には,古くは1900年前後からの三菱製紙高砂工場によるものがあり,第2次大戦後では水質汚濁防止法制定のきっかけとなった58年の本州製紙江戸川工場事件(廃水による汚染で漁民が工場に乱入,警官と衝突)が有名であるが,事実上はすべての紙・パルプ工場がなんらかの事件を発生させてきた。また,紙・パルプ工業は原料輸送と用水の面で集中立地する傾向があり,静岡県富士市地区,愛媛県伊予三島・川之江地区などではこれにより被害はいっそう深刻となり,70年前後には一大社会問題となった。とくに富士市では,県の行政指導が廃水処理を各工場に要求しないというものであったため,月量200万tの各種廃水が無処理で田子ノ浦港に流入し,日量3000tのへどろが港内に沈積した。このため,68年から港内の浚渫(しゆんせつ)が行われへどろの沖合投棄が行われたが,駿河湾特産のサクラエビをはじめとする沿岸漁業の被害が大きく,漁民の抗議で70年4月から浚渫は中止された。一方,企業に対する規制が行われなかったため,水深9mの港内が5mも埋まり,5月には貨物船が座礁,7月には港内作業員がへどろから発生する硫化水素ガスで中毒する事態となった。その後,各工場における処理施設の設置,排水路の終末処理場の建設により被害は減少に向かったが,これは紙・パルプ工業による最大の公害事件であった。

 また,ノーカーボン紙の原料にPCBが利用されたことから,三菱製紙高砂工場などではPCB汚染も問題となり,72年PCBを含むノーカーボン紙の製造および使用は中止されたが,特殊紙の製造は新しい形の公害をひき起こす可能性があり,十分な注意が必要となる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紙パルプ工業」の意味・わかりやすい解説

紙パルプ工業
かみぱるぷこうぎょう

木材からパルプを生産するパルプ工業と、パルプから紙を生産する製紙工業を一括して紙パルプ工業とよぶ。わが国の場合、パルプは1981年(昭和56)現在97%が製紙用に、わずかに3%が溶解パルプとよばれる化繊用に消費されるため、パルプ工業は製紙工業の原料供給部門とみなしてよく、事実、大手企業ではパルプから紙まで一貫生産している場合が多い。

[殿村晋一]

世界の紙パルプ工業

製紙業が近代産業として発展する契機となったのは、フランスのロベールNicolas-Louis Robert(1761―1828)が1799年に発明した紙すき機(現在の長網抄紙機と同じ原理の機械)と、ドイツのケラーFriedrich G. Keller(1816―95)が1840年に開発した砕木パルプ法である。ついで1851年ソーダ法、67年亜硫酸(サルファイト)法、84年クラフト法が開発され、パルプ製造を基盤とする近代的製紙工業が確立し、増大する紙需要に促され、大量生産段階に移行した。さらに、19世紀末から20世紀の20年代末にかけて開発されたセルロイド、人絹、セロファン、スフの原料としてパルプが使用されるに及んで、パルプには溶解用パルプとして新たな用途が開かれることとなった。

 1983年の世界のパルプ生産量は約1億3112万トンで、国別では、アメリカが4766万トン、カナダが1922万トン、日本が886万トン、スウェーデンが867万トン、旧ソ連が791万トンで、この5か国で世界の生産量の約70%を占めていた。紙の生産量は約1億7728万トンで、アメリカ5885万トン、日本が1844万トン、カナダが1335万トン、旧ソ連が956万トン、旧西ドイツが827万トンで、この5か国で世界の生産の約61%を占めていた。このうち、アメリカ、日本、旧ソ連などは国内資源に依拠しており、国内消費を満たすような自給自足型として発展してきたが、旧西ドイツ、フランス、イギリス、イタリアなど木材資源の乏しい国々は、原木・パルプの輸入依存によって紙パルプ工業を発展させてきた国々であり、これに対し、カナダ、スウェーデン、フィンランドなどは、豊富な木材資源を背景に輸出依存型として発展してきた国々である。現在、カナダ、北欧諸国、それにアメリカがパルプの輸出国で、EC諸国、そして日本がそのおもな輸入国である。

[殿村晋一]

日本の紙パルプ工業

わが国の近代的な機械製紙は、旧広島藩主浅野長勲(ながこと)が1874年(明治7)有恒社(東京・日本橋)をおこし生産を開始したことに始まり、翌75年には東京の王子に渋沢栄一の唱導により抄紙会社(王子製紙の前身)が設立された。わが国に本格的な洋紙市場が成立し、大量生産が行われたのは、日清(にっしん)・日露戦争を契機とする新聞・雑誌の大衆化によるもので、明治末年、工場数は33に及んだ。これも第一次世界大戦後の不況過程で大会社による中小会社の合併が進み、1930年(昭和5)には王子製紙、富士製紙、樺太(からふと)工業の3社で洋紙生産の86%を占めるに至った。さらに33年には世界大不況のあおりで3社が合併、王子製紙となり、王子は全国パルプ生産の96.6%、洋紙生産の84.6%(うち新聞用紙では95.1%)を占める巨大独占企業となった。一方、パルプ工業は、機械製紙が始まった当初は破布を主原料に都市に立地していたが、その後、藁(わら)を副原料とし、さらに明治30年代には輸入パルプを国産に切り替える。1909年(明治42)に富士製紙が北海道江別に、11年には王子が苫小牧(とまこまい)に工場を建て、エゾマツ、トドマツを原料としてパルプを生産し、日露戦勝の結果、南樺太にも進出した。製紙用木材パルプの自給度は急速に高まり、35年(昭和10)にはパルプ工場は27、生産量は77万トンに達した。

 第二次世界大戦後の製紙企業は、集中排除法によって王子製紙が苫小牧製紙(後の王子製紙)、十条製紙、本州製紙に分割され、独占体制は解体された。旧王子3社の市場占有率は急激に低下した(終戦時の67.5%から解体直後の1950年(昭和25)には37.7%、55年には27.7%)。樺太など外地資産(全資産の6割)の喪失が痛手であった。「国策」「東北」「日本」「山陽」のパルプ4社が製紙部門に乗り出したほか、「大昭和製紙」「中越パルプ」「高崎製紙」「日本紙業」など新興4社が上位10社に顔を出し、戦後混乱期の異常ブームにのった新興中小メーカーの出現とあわせて、業界は独占から過当競争へとさま変わりする。さらに需要の増加に伴い、新会社や工場の新増設が続き、71年には紙パルプ工業の企業数は538社に達した。パルプ専業15社、パルプ→紙一貫生産メーカー44社、特殊紙製造に特化している製紙専業メーカー479社がその内訳である。新規参入企業が増加した理由は、紙・板紙の品種が多様なため、大企業といえども全品種の紙の製造にかかわることが不可能で、パルプや新聞用紙などでは大企業が、戦後急成長した段ボール原紙や家庭用薄葉紙などでは中小企業の占める割合が高いからである。業界の過当競争体質は80年代にそのまま引き継がれている。生産量も経済界の高度成長に支えられて、73年まで飛躍的に増加した(63~73年平均の内需伸長年率9.8%)。その後、オイル・ショックなどの影響から低迷するが、83年現在、パルプ生産ではアメリカ、カナダに次いで世界の3位、紙・板紙の生産ではアメリカに次いで2位、国民1人当りの紙消費量は年間153キログラムで世界の9位である。消費の内訳は、産業用消費(商品の包装材料、事務用品、建築資材、工業製品の部品)が紙の全需要の57%、文化用(新聞、雑誌、書籍)が37%、学習用・生理衛生用が6%であった。

[殿村晋一]

問題点

1980年代に入り、紙パルプ工業は、不況対策・構造改善を進めつつ、本格化する国際競争への対応を迫られている。

 1960年代の高度成長のもとで、産業用需要の伸びを中心に高成長した紙パルプ工業も、低成長への移行に伴い、紙・板紙内需伸長年率は1.8%と大幅にダウンし、内需の減退による需要ギャップの拡大のため、80年代には戦後最大の不況に陥った。81年5月に始まった不況対策では、合併など各社の自主努力に加え、洋紙主力3品種の不況カルテルの結成、9月には段ボール原紙・家庭用薄葉紙を除く紙・板紙全品種の製造設備新増設の2年間抑制、77社延べ約20万人を超える一時帰休が実施されたほか、過剰設備の処理問題については、特別不況産業安定臨時措置法の改正によって構造改善を図ろうとしているものの、業界のコンセンサスは得られていない。83年には、輸入紙の蚕食も重なって大幅な低操業(操業度は紙75%、板紙70%)を強いられている。

 国際競争力についていえば、原木資源の逼迫(ひっぱく)・高騰とエネルギー価格の高騰が問題である。紙パルプ業界は早くも1952年ごろから始まった「原木高・製品安」に対処するため、各社とも針葉樹から割安の広葉樹や廃材、製材くずなどへの転換を図り、アメリカ産針葉樹チップを中心に南方材・ロシア材を輸入するほか、古紙回収に努めるなどによって、急増する紙需要にこたえてきた。80年、パルプ材は国産材54%、輸入材46%と年々輸入材のウェートを高めており、針葉樹はアメリカ、広葉樹はオーストラリアに大きく依存している。とくにアメリカからの輸入チップ価格が79年秋から80年上期にかけて約3倍近くに急騰したため、オイル・ショック後のエネルギー高騰と絡んで、日本のパルプ業界は急速に国際競争力を失いつつあり、加えてアメリカからは製品輸入の拡大、関税引下げ要求も強まっている。このため、産業構造審議会(パルプ部会)を中心に、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどで合弁による海外工場の設立によって、パルプまたは量産製品の輸入を図り、東南アジアなどで造林事業を推進し、パルプ材の開発輸入を図る方針が明確にされ、大手メーカーの海外進出が図られている。海外進出の紙パルプ工場は、81年末現在、アメリカ2、カナダ3、ニュージーランド1、ブラジル1、計画中がアメリカ2、カナダ2、ニュージーランド1となっている。内需型素材産業として発展してきた日本の紙パルプ工業も国際化時代を迎えたのである。国内では、高濃度抄紙技術、古紙高度利用技術、省エネルギー・省資源技術の開発とともに、中小メーカーによる原材料高歩留り品種、省エネルギー品種、とくに高付加価値品種の生産への特化は不可避である。ヘドロなど公害問題については、公害防止投資は一巡したといわれるが、無公害パルプについてはコスト高を理由に開発が断念されたほか、排煙、騒音などはなお残された課題である。

[殿村晋一]

『通商産業省紙業印刷業課編『緑化と国際化の中の紙パルプ産業――21世紀へ向けての産業グローバル戦略』(1994・通商産業調査会出版部)』『テックタイムス編『紙パルプ企業・工場データブック』(2002・紙業タイムス社)』『『紙パルプ産業と環境』各年版(紙業タイムス社)』

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