紀年法(読み)きねんほう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀年法」の意味・わかりやすい解説

紀年法
きねんほう

年を単位として、経過した時を年数をもって数える方法をいう。このためには、ある起算の時点を必要とする。これを「紀元」といい、起算点である紀元から連続して数えた年数が紀元年数である。

 人が生まれた時点を起算点として年齢を数えるように、国家や民族においても歴史的事実を記述するうえでは、一連の紀元年数をもって表すのが便利である。この目的のために紀年法が発生する。世界においてかつて用いられ、あるいは現在用いられている紀元は50余種あるといわれ、そのなかには一時的なもの、あるいは限られた小区域だけに用いられたものなどもある。

 起算点の根拠をみてみると、(1)天文学者や年代学者による純天文学的な紀元、(2)国家の建国を記念した建国紀元、(3)政治的支配者の統治に始まる政治的紀元、(4)国家、民族にとって記念すべき大事件の起こった年を記念する紀元、など種々である。以下、主要な紀年法について述べる。

[渡辺敏夫]

キリスト紀元

今日、世界のほとんどの国が広く採用している紀年法。キリスト降誕の年を元年とし、経過年数を数える。日本ではこれを西暦紀元、略して西暦、西紀という。キリスト紀元は、初め教会における宗教上の祭典を執行する必要から、525年にローマの僧ディオニシウス・エクシグウスDionysius Exiguus(497ころ―550)が創案した宗教的紀年法である。しかし、キリスト生誕の年については、若干、事実より遅れているといわれている。

[渡辺敏夫]

神武天皇即位紀元

日本の第1代天皇とされる神武(じんむ)天皇が即位した年を紀元とする日本の建国紀元。略して皇紀という。キリスト紀元に先だつこと660年である。しかし神武紀元は伝説に基づくという理由で第二次世界大戦後は用いられなくなった。

[渡辺敏夫]

ヒジュラ紀元

イスラム教徒の用いるイスラム暦の宗教的紀年法。西暦636年、イスラム教主第2世ウマルが設定した。教祖マホメット(ムハンマド)が迫害を受けてメッカからメディナに逃れた622年7月16日金曜日(ユリウス暦による)を起算点とする。イスラム暦は純太陰暦であり、その1年は太陽暦の1年より短い。したがって西暦とヒジュラ紀元の二つの紀年法の間では紀元年数にしだいに開きが出てくる。

[渡辺敏夫]

創世紀元

ユダヤ紀元ともいう。ユダヤ暦で使用され、西暦紀元前3761年10月7日を起算点とする。ユダヤ民族の伝説に基づく紀年法である。

[渡辺敏夫]

釈迦紀元

インドのシャカ人の王が北西インドを征服した西暦78年を紀元とする。中部インドを中心に広く用いられる。インドでは宗教的理由のために全国各地方で30種余りの暦が用いられ、紀年法も約20種あるといわれている。インド政府は1952年に改暦に着手し、1957年3月22日を年首(カイトラ月1日、ただし閏年(うるうどし)の場合は3月21日)とし、紀元は釈迦紀元(しゃかきげん)を採用した。

[渡辺敏夫]

ヤズドガルド紀元

ササン朝ペルシアの末期、ヤズドガルド3世YazdgardⅢ(在位632~651ころ)は、自らが即位した西暦632年6月16日に始まる紀年法をとり、ペルシアの天文学者はこれを利用した。

[渡辺敏夫]

ジャラール・ディーン紀元

セルジューク・トルコ朝第3代のスルタン、マリク・シャー(ジャラール・アル・ディーンJalāl al-Dīn、在位1072~1092)はオマル・ハイヤム(ウマル・アル・ハイヤーミー)を長として暦法の改正を行った。その結果、西暦1079年3月15日を紀元とする紀年法を採用、新暦は「ジャラール暦」と名づけられた。これはアラビアの天文学者により利用された。

[渡辺敏夫]

ナボナサール紀元

アッシリアのティグラト・ピレセル3世の勢威下にあったバビロニアの王ナボナサールNabonassar(在位前747~前734)が即位した西暦紀元前747年2月26日を起算点とする紀年法。最古のものであり、移動年(年ごとに季節といくらかずつずれていく1年をいう)と関連して使用され、年代学で重用され、また、プトレマイオスやその他の天文学者により、観測の日付や、天文学の各種の表をつくる際に用いられたが、歴史的紀年法として用いられたという確かな証拠はない。

[渡辺敏夫]

セレウコス紀元

アレクサンドロス大王の配下の部将セレウコスが、彼の王朝を創始した西暦紀元前312年を起算点とする紀年法。なお、「ギリシアの年」として西暦紀元前311年を紀元とするものがこれと併存して使用されたが、結局前者が有力となった。セレウコス紀元は広く西アジアに普及し、中世まで用いられ、今日でもシリアのキリスト教徒はなお宗教上ではこの紀年法を採用している。

 この紀年法のユリウス暦形式のものに「ローマ紀元」「アレクサンダー紀元」「コントラクト紀元」などがあり、これらはその紀元を西暦紀元前312年10月1日とする。

[渡辺敏夫]

ローマ市創設紀元

古代ローマ人が用いた紀年法で、ローマ市の創設の年を紀元とする。しかし、その創設の年については諸説がある。ローマの百科全書的著作家ウァローMarcus Terentius Varro(前116―前27)によれば、創設は西暦紀元前754年7月~前753年7月にわたっている。紀年法の起算点は、ユリウス暦の紀元前753年1月1日(伝説によれば4月21日)にとる。

[渡辺敏夫]

オリンピア紀元

古代ギリシアでとられた紀年法。第1回オリンピックが開かれた西暦紀元前776年7月8日を起点に4年の周期をもって循環する数え方で、この周期をオリンピア期とよび、具体的にはオリンピア期何回の何年目、たとえば紀元前310年はオリンピア紀117回第3年と数え、Ol.177,3のように記す。

[渡辺敏夫]

ビザンティン紀元

ビザンティン帝国内で行われた紀年法。その起算点は西暦紀元前5509年9月1日である。南イタリアシチリアでは帝国支配下にある間用いられ、ギリシアでは西暦1830年まで、セルビアでもそれ以後まで用いられた。

[渡辺敏夫]

干支紀年法

中国や、中国から輸入した暦を使った日本では、天皇・王公の即位年数をもって年を数えたが、のちに元号(げんごう)(年号)による方法が発生した。これとは別に、60年で循環する干支(えと)で年を記載する干支紀年法が使われた。干支紀年法だけでは、60年で同じ干支が繰り返し、何回目の干支か判明しにくくなるため、他の紀年法と併記しないと年数、あるいは時代を確定できない不便があるが、併記の紀年の正否を確認するには都合がよい。

[渡辺敏夫]

『渡辺敏夫著『暦のすべて』(1980・雄山閣出版)』『広瀬秀雄著『暦』(1981・近藤出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「紀年法」の意味・わかりやすい解説

紀年法 (きねんほう)

過去のある年を起点として年を通算する方法で,起点となる紀元元年は宗教的,軍事的,政治的事件に基づいて設定される。第2次世界大戦中に日本で使用された神武紀元は,神武天皇が国内を統一し橿原宮で即位したという《日本書紀》の記事によって設定されたもので,政治的紀年法といえよう。かつてインドで行われ,現在も東南アジアの一部で行われるシャカ紀元は,シャカ族の王がインダス地方を征服したという軍事的事件に基づいて設定されたもので,西暦78年をその第1年とする。このような政治的ないし軍事的紀元は主として古代西方諸国で盛んに行われ,その種類はきわめて多いが,ほとんどが年代学の対象であり,歴史的にみて重要であるが,現在はほとんど使用されていない。これに反し宗教的紀元は国境を越えて広く使用され,現在も多くの国での紀年法となっている。

キリスト紀元ともいわれ,現在の中国では公暦という。キリストが誕生した年を第1年とする紀年法で,現在世界中でもっとも広く使用される。西暦550年ごろローマで亡くなった神学者・年代学者ディオニュシウス・エクシグウスDionysius Exiguusがはじめて提案した。当時ローマではキリスト教の迫害者として有名なローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位284-305)の即位紀元が使用されていたが,キリスト教徒にとって不都合なものであり,この新たな提案となったのである。しかし新紀元は容易に使用されず,ヨーロッパの一部の国で使用されるようになったのは10世紀からであった。紀元元年となるキリスト誕生の年は確定したものでなく,後世の学者の研究によれば,4年ないし5年ほど昔にさかのぼるものと考えられている。西暦年数を表すA.D.は〈神の年〉Anno Dominiの略である。A.D.は1年から始まり,たとえば西暦1985年はA.D.1985と記される。西暦前はキリスト誕生以前を意味する英語before Christを略してB.C.と書くのが一般的である。西暦前は1年よりさかのぼって2,3……と数え,西暦前20年は20B.C.と書くことになっている。しかし天文学者のあいだでは1B.C.を0年,2B.C.を-1年と表記することがある。なおA.D.1年の年初はキリスト誕生の日ではなく,この年はキリスト誕生の日を含む年である。キリスト誕生の日は現在では12月25日となっている。

ヒジュラ紀元ともいう。西暦紀元は日本のようにキリスト教国でない国でも使用されているが,イスラム紀元はもっぱらイスラム教国のあいだで現在使用されている。イスラム教の開祖ムハンマド(A.D.570ころ-632)はアラビア半島のメッカに生まれ,アッラーの啓示を受けて新宗教をはじめたが,クライシュ族の迫害を受けてメディナに逃れた。これをヒジュラ(聖遷)と呼んでおり,ヒジュラ暦(イスラム暦ともいい,太陰暦)によるこの年の第1月(ムハッラム月)第1日より年を数えたものである。この場合も聖遷の日がヒジュラ紀元元年の年初と一致するものではない。ヒジュラ紀元の年初は,ユリウス暦つまり天文学的に数えるとA.D.622の7月15日(木曜日)である。ヒジュラ紀元はムハンマド没後かなり年を経てから創設された。毎月のはじめを朔から数えないで,新月の見える宵から日を数えることが,イスラム教徒のあいだでは通常であり,これによれば,同年7月16日がヒジュラ紀元の年初となる。なおイスラム教国で使用される暦は太陰暦であり,1年12ヵ月の日数は354日もしくは355日であり,太陽暦の1年より短い。太陽暦の97年はイスラム暦の100年ほどとなる。また両者のあいだで,年初もくいちがっている。

東南アジアの仏教国では釈尊寂滅に始まる紀元を使用する。しかしこの寂滅の年は明確でない。タイやカンボジアでは543B.C.を仏滅紀元元年とする。この地方ではまたA.D.78に始まるシャカ紀元が併用される。シャカ紀元による数え方を大暦と呼んでいる。またミャンマーではカンダソレア王の時代にはじめて仏教が伝えられた年(A.D.638)を記念して創始された紀元が使用される。なお東南アジアでは今日もなお太陰太陽暦が使用され,その年初は現行太陽暦と一致しない。

以上の紀年法のほか,日本ではなお元号が使用されている。中国では殷・周の時代に王の即位年数で年を数えることが行われた。その後,秦を経て漢王朝が成立したが,漢の武帝はその即位の元年を建元元年(140B.C.)とし,これから元号が始まった。新帝の即位はもちろん,在位中に大きな災害があったり瑞祥が現れたりすると元号を改めることがあり,一人の皇帝のあいだに数回の元号が採用されるのが常であった。しかし明の初代皇帝は元号を洪武とし,一世一元号制を採用し,この制度が明・清を通じて踏襲された。日本では孝徳天皇のときに大化の元号が採用され(A.D.645),それ以後この制度が行われた。中国における改元の理由のほかに,日本では中国の緯書にもとづく辛酉革命,甲子革令の説によって,辛酉および甲子の年に改元することが王朝時代からはじまった。こうして一人の天皇の在位中に数回の改元が行われたが,明治以後は明・清と同じく,一世一元号制が行われるようになった。
異年号 → →世紀
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紀年法」の意味・わかりやすい解説

紀年法
きねんほう
calendar; calendar systems

国や民族の歴史を計算する際,起算の年を定めて紀元として計算する方法。西洋最古の紀元としては,新バビロニア帝国の祖ナボポラッサルに始る「ナボポラッサル紀元」がある。これは,前 747年を起点としてバビロンの地に君臨したバビロニア,ペルシア,そしてアレクサンドロス3世 (大王) とその後継者を通して数えられたものである。このほか「アレクサンドロス紀元」「アウグスツス紀元」,古代ギリシアには「トロイ紀元」「セレウコス紀元」,ローマには「ローマ建国紀元」などがある。キリスト教に基づくものとして「アブラハム紀元」「天地創造紀元」その他があるが,「キリスト紀元」が最も長く,影響力をもって今日にいたった。これは6世紀前半頃ローマで活躍した司祭ディオニシウス・エクシグウスが『復活祭の書』のなかで「キリスト降誕紀元」を使ったのが最初といわれ,やがて9世紀のカルル1世 (大帝) のときに,他の紀元に対して決定的優位を得て今日にいたった。インドでは政治的なもの,天文暦法的なもの,宗教的なものなど多数の紀元があり,たとえば「グプタ紀元」「カニシカ紀元」などがある。またイスラム圏ではイスラムの「ヘジラ紀元」 (622年ムハンマドがメッカからメジナへ逃れた年から数える) が最も有力である。東洋諸国には王朝ごとに短期間の紀年法があり,これを元号もしくは年号と呼んだ。中国では元号と干支紀年法が盛んであったが,紀元に相当するものとしては 1911年,黎元洪が革命政府を樹立したときに黄帝の即位年から数える「黄帝紀元」を採用したことがあり,これは宋代以来の著述にみられることがある。中華民国成立以降は「キリスト紀元」が用いられている。日本では『日本書紀』の神武天皇の即位年から始り,聖徳太子が,讖緯 (しんい) 説によって,推古天皇9 (601) 年から一蔀 (いっぽう。 1260年) さかのぼらせて定めたものといわれるものがある。江戸時代にはかなり一般化し,明治5 (1872) 年明治政府は太政官布告をもって「日本紀元」と定め,翌年の2月 11日を紀元節としたが,ともに 1948年廃止された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「紀年法」の解説

紀年法(きねんほう)

特定の年を紀元と定め,それから起算した経過年数で年代を表示する方法。紀元は理論上どの年でもかまわないので,通常は政治的に定められる。現在世界的に普及している「キリスト降誕紀元」は,525年神学者ディオニシウス・エクシグースが初めて採用したものであって,9世紀以後ヨーロッパに普及した。キリスト紀元外で歴史上著名なものには「ナボナサール紀元」(前747年),「セレウコス紀元」(前311年),「ローマ市創設紀元」(前753年),「アレクサンドリア紀元」(前5492年),イスラームの「ヒジュラ紀元」(後622年),ユダヤ教の「創世紀元」(前3761年),それに太平洋戦争の終戦までわが国で行われていた「日本紀元(皇紀)」(前660年)などをあげることができよう。

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旺文社世界史事典 三訂版 「紀年法」の解説

紀年法
きねんほう

特定の年を紀元とし,それを起点に歴史上の経過年数を数える方法
紀年の数え方はギリシアのオリンピア紀元(起点 前776),ローマ市創設紀元(前753),イスラーム圏で用いられるヒジュラ紀元(622),日本の神武紀元(前660)など50種ほどある。6世紀以来用いられ,今日世界的に行われているのは西暦紀元で,キリストの降誕を基準とし,西暦以前はB.C.(Before Christ),以後はA.D. (Anno Domini)の略号で表示する。これに対し,イスラーム暦(ヒジュラ紀元)は1年を354日,12か月とする太陰暦のため,西暦1999年は1420年となる。

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百科事典マイペディア 「紀年法」の意味・わかりやすい解説

紀年法【きねんほう】

特定の年を紀元と定め,それから起算した経過年数で年代を表示する方法。

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世界大百科事典(旧版)内の紀年法の言及

【コンスル】より

…独特なのは同僚制で,コンスル2名は同一権限の全く対等な立場にあり,干渉による公務差止めが互いに可能なので,ローマ市内では月番交替で執務し,戦地では1日交替とするか,任地を分けた。卓越した権限と権威のゆえに〈AとBがコンスルの年〉という紀年の定式(紀年法)が生まれ,コンスル就任日(3月15日。前153年から1月1日)を年初とした。…

※「紀年法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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