紀平正美(読み)きひらただよし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀平正美」の意味・わかりやすい解説

紀平正美
きひらただよし
(1874―1949)

哲学者三重県に生まれる。東京帝国大学哲学科を卒業し、1905年(明治38)から『哲学雑誌』に「ヘーゲル氏哲学体系」(『哲学体系(エンチクロペディー)』の訳)を小田切良太郎(?―1932)と共訳で連載し、本格的なヘーゲル翻訳の先駆をなした。岩波哲学叢書(そうしょ)の第一冊『認識論』(1915)は、日本人の手になる初の本格的な認識論研究である。翌1916年(大正5)の『哲学概論』も含めて、このころまでは、カント、ヘーゲルを中心として着実に西洋哲学を研究しようとする姿勢がみられる。1919年学習院教授となり、『行(ぎょう)の哲学』(1923)に至ると、この書の末尾に「我は日本人なり」と大書しているように、ヘーゲルの弁証法に儒教仏教思想を折衷し、国民道徳を形成していこうとする志向が強くみられるようになった。1932年(昭和7)以降、国体精神の教化を目的とする国民精神文化研究所の理論的指導者として活躍した。

[渡辺和靖 2016年8月19日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紀平正美」の意味・わかりやすい解説

紀平正美
きひらただよし

[生]1874.4.30. 三重
[没]1949.9.18. 東京
哲学者。東京帝国大学文科大学卒業。國學院大學,東洋大学講師を経て,1919年学習院大学教授。 1937年国民精神文化研究所の設立とともに所員となったが,研究所が 1943年教学錬成所に併合されたのちまもなく退職した。哲学思想としては,初めドイツ観念論を中心とした西欧哲学,特にヘーゲルの影響が強かったが,のち,仏教思想もいれ,国民精神文化研究所時代は国家主義思想に傾斜していった。主著『行の哲学』 (1931) ,『知と行』 (1938) ,『なるほどの哲学』 (1941) ,『なるほどの論理学』 (1942) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「紀平正美」の解説

紀平正美 きひら-ただよし

1874-1949 明治-昭和時代の哲学者。
明治7年4月30日生まれ。38年ヘーゲルの「エンチュクロペディー」(部分)を共訳,日本のヘーゲル研究に先鞭(せんべん)をつける。大正8年学習院教授。のち国家主義的傾向をつよめ,国民精神文化研究所所員として日本主義を鼓吹し,戦後公職追放。昭和24年9月19日死去。76歳。三重県出身。東京帝大卒。著作に「認識論」など。

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