紀伊国屋文左衛門(読み)きのくにやぶんざえもん

改訂新版 世界大百科事典 「紀伊国屋文左衛門」の意味・わかりやすい解説

紀伊国屋文左衛門 (きのくにやぶんざえもん)

元禄時代の豪商。生没年不詳。通称紀文。江戸の本八丁堀三丁目に住し幕府の材木御用達として活躍,巨富を積んだ。たとえば1698年(元禄11)に江戸寛永寺根本中堂の資材調達を請け負ったと伝えられるほか,1700年には下総香取社の普請用材を調達している。これら用材は,おもに駿府(静岡市)の豪商松木新左衛門らとともに,大井川上流の駿州,遠州(静岡県)の山々から採材した。忍(おし)藩主阿部正武らに大名貸も行っていたらしい。とくに,柳沢吉保と並ぶ幕閣の実力者であった老中阿部とは密接な関係にあった。同藩の記録《公余録》によれば,1703年9月15日に江戸藩邸で正式に御目見し拝領物を頂戴,翌日忍領内の秩父銅山見分に出立したが,終始きわめて丁重な待遇をうけており,権力と結託する政商としての一面をうかがうことができる。このほか,幕府の鋳銭事業を請け負ったと伝えられるが,上記の秩父銅山見分は,その銅銭鋳造事業と無関係ではなかろう。日常生活は贅をきわめ,遊里吉原などでも豪遊したため紀文大尽と称せられたが,宝永末年か正徳のころ材木商を閉業し,深川一の鳥居付近に隠棲,晩年は微禄した。山東京伝の《近世奇跡考》(1804成立)によれば,俳諧を宝井其角に学び千山と号し,1734年(享保19)4月24日没,法名は帰性融相信士,深川霊巌寺塔頭の浄等院に葬られたという。没落の原因は,大金を湯水のごとく遊び費やしたということだけでなく,過伐濫伐により山林が荒廃し林業不況が生じたため,当時一般に材木商経営が悪化したことが挙げられる。さらに没落の背景として,元禄のインフレ政策から新井白石の正徳の治によるデフレ政策へと幕政が転換したため,政商紀文の活躍する場がなくなったことも指摘できよう。このように紀文は,その身一代で豪商に成りあがり,また没落したことで有名であるが,創業の基礎をひらき財をなしたのは紀州出身の父であり,豪遊して没落したのはその子であるという紀文二代説もあるなど,紀文の履歴には,なお不明の点が多い。
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文左衛門の俗伝は,ミカンの買出しと吉原豪遊によって有名であり,また明暦大火のおり木曾材買占めで巨利を得た河村瑞賢逸話が混同されるなど,早くから伝説化した。享保期の俳優二朱判吉兵衛作と伝えられる《大尽舞》に〈抑(そもそも)お客の始りは高麗もろこしはぞんぜねど,今日本にかくれなき紀の国文左でとゞめたり,緞子(どんす)大尽はりあひに三浦の几帳きちよう)を身受する……〉とうたわれている。江戸期随筆考証文の類にも紀文の事跡は記されたが,真偽わかちがたい。読本《昔唄花街始(むかしうたくるわのはじまり)》(式亭三馬作,1809)には〈つのくに汶三(ぶんざ)〉の名で捌(さば)き役として登場,人情本の《紀文実伝長者永代鑑》(2世楚満人(為永春水)作,文政年間),合巻の《黄金水大尽盃(おうごんすいだいじんさかずき)》(2世為永春水作,1854-66)等では主人公となっている。歌舞伎では《青楼詞合鏡(さとことばあわせかがみ)》(並木五瓶作,1797桐座初演)で3世沢村宗十郎が紀伊国屋文蔵に扮し好評を得,いらい読本等の挿画は宗十郎の似顔で文左衛門を描くにいたった。また《紀文大尽廓入船(くるわのいりふね)》(3世河竹新七作,1878市村座初演)は,前記2世為永春水作の合巻をもとに放牛舎桃林が講釈化したものの脚色。長唄にも《紀文大尽》(中内蝶二作詞,1911発表),また実録本には《名誉長者鑑》(成立年不詳)があり,俗伝ではおおむね初世の一代富豪化と2世の驕奢・零落とが分けて描出され,江戸町人の一典型となっている。
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朝日日本歴史人物事典 「紀伊国屋文左衛門」の解説

紀伊国屋文左衛門

没年:享保19.4.24(1734.5.26)
生年:寛文9頃(1669)
江戸中期の江戸の豪商。没年66歳といわれる。紀文大尽とも。紀伊国の出身で,現在の和歌山県有田郡湯浅町別所の生まれと推定される。両親は不詳。はじめ紀州のみかんを江戸に回漕し,江戸から塩鮭を上方にもたらして巨利を得,当初の資本を蓄積したと伝えられる。貞享年間(1684~88)20歳のころ江戸に出,京橋本八丁堀3丁目に居所を構え,一町四方の屋敷に大きな材木問屋を開き,また材木置場を深川木場に置いた。江戸は火災が多く,その都度大建築が行われ,材木問屋は繁盛を極めた。なかでも紀文は老中柳沢吉保らと結託し,御用達商人として利権を得て巨利を占めた。元禄11(1698)年2月の上野寛永寺根本中堂の普請造営に関与し,その用材請負に成功,駿府(静岡県)の豪商松木新左衛門と組んで,一挙に金50万両の巨利を得たことは有名。また御用達として長崎貿易にも関係し,亜鉛(とたん)を原価で仕入れている。亜鉛の営業はリスクの多い商いとされていたが,材木とともに建築用材として利益の大きな商品であった。同14年以降,鋳銭事業を請け負ったといわれるが詳らかでない。 ところが元禄末以降,深川の材木置場のたびたびの火災による損害や,幕閣要人との不正などもあって失脚し,正徳年間(1711~16)には材木問屋を廃業。浅草寺内慈昌院地内に移り,次いで深川八幡の一の鳥居北側に隠棲し,道具類の売り食いをする一方,風流な俳諧の生活に生涯を過ごした。その気質は闊達で豪快,任侠をこととし,千金を投じて吉原の大門を閉め独占するなどの豪遊があった。取り巻きにも俳人の榎本其角ら一流の文化人がついていた。事業も豪快,利益も巨額,浪費もまたすさまじかったことが,江戸っ子を広くひきつけ,日夜の噂の種になった。このことは幕府の勘定方役人の供応と,その財力についての信用を得るための演出とも考えられ,紀文個人の私生活は意外と質素なものがあったようだ。<参考文献>上山勘太郎『実伝紀伊国屋文左衛門』,『紀伊国屋文左衛門』(『南紀徳川史』),竹内誠「紀伊国屋文左衛門考証」(津田秀夫編『近世国家の成立過程』),安藤精一「紀伊国屋文左衛門」(『歴史教育』15巻11号),中田易直「紀伊国屋文左衛門」(『金融ジャーナル』1974年11月号)

(中田易直)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紀伊国屋文左衛門」の意味・わかりやすい解説

紀伊国屋文左衛門
きのくにやぶんざえもん

生没年不詳。元禄(げんろく)時代(1688~1704)の豪商。通称紀文、俳号千山(せんざん)。若年のとき暴風雨をついて故郷紀州(和歌山県)から蜜柑(みかん)船を江戸へ回漕(かいそう)し巨利を得たことや、遊里吉原での豪遊の話などで知られるが、その経歴は伝説化され、確かな史料に乏しい。貞享(じょうきょう)年間(1684~88)に江戸に進出、八丁堀で材木商を営み、1698年(元禄11)の上野寛永寺根本中堂(こんぽんちゅうどう)の造営に際して用材調達を一手に請け負い財をなしたといわれる。老中柳沢吉保(よしやす)・阿部正武、勘定奉行(ぶぎょう)荻原重秀(おぎわらしげひで)らに接近、御用商人として、奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)、淀屋辰五郎(よどやたつごろう)などとともに全盛を極めた。しかし、政権担当者が柳沢吉保から新井白石(あらいはくせき)にかわり、デフレ政策が展開され始めると家運は衰退し、宝永(ほうえい)(1704~11)末から正徳(しょうとく)(1711~16)のころには材木商を廃業、江戸深川一の鳥居付近に隠棲(いんせい)した。

 俳諧(はいかい)や絵もたしなみ、宝井其角(きかく)、英一蝶(はなぶさいっちょう)らと交友があった。1804年(文化1)に成立した山東京伝(さんとうきょうでん)の『近世奇跡考』には、享保(きょうほう)19年(1734)4月2日没とあるが、紀文を創業蓄財の父と遊蕩(ゆうとう)没落の子の2人と考える紀文二代説もあり、なお不明な部分の多い人物である。

[大石 学]


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百科事典マイペディア 「紀伊国屋文左衛門」の意味・わかりやすい解説

紀伊国屋文左衛門【きのくにやぶんざえもん】

江戸前・中期の豪商。生没年不詳。紀州熊野の出身で,紀州ミカンの江戸出荷と木材の買占めで巨富を築いたとされ,当時の豪商奈良屋茂左衛門とともに,大尽ぶり(紀文大尽)で有名。履歴には不明の点も多く,財をなしたのは紀州出身の父,豪遊没落したのはその子という説もある。しかし駿府(すんぷ)の豪商松木新左衛門らと駿遠地方の木を採材して下総(しもうさ)香取神宮の用材を調達したことや,大名貸などを通じて武蔵忍(おし)藩主老中阿部正秋に取り入っていたことなどは確認できる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「紀伊国屋文左衛門」の意味・わかりやすい解説

紀伊国屋文左衛門
きのくにやぶんざえもん

[生]寛文9(1669).紀州
[没]享保19(1734).4.24. 江戸
江戸時代,元禄期(1688~1704)に活躍した商人。姓は五十嵐。紀州加田浦の人とも熊野の人ともいう。荒天をついてミカンを紀州から江戸へ回漕し,一躍巨万の富を得て,さらに,江戸八丁堀で材木屋を営み,江戸の大火には木曾の材木を買い占めて急送し,財をなしたといわれる。当時から文学,演劇の好個の題材となったが,伝説化された部分も多く,その経歴や事績も正確に判明していない。また,その豪勢な散財ぶりも「紀文大尽」の名とともに喧伝されたが,晩年には家産も傾いて江戸深川の富岡八幡の近くに隠棲し,千山と号して文筆,絵画などに親しみ余生を送ったといわれる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「紀伊国屋文左衛門」の解説

紀伊国屋文左衛門
きのくにやぶんざえもん

1669?~1734.4.24

江戸前・中期の江戸の豪商で大尽として有名。紀伊国生れ。伝記は不明なことが多く文学的逸話に富む。紀州みかんを江戸に回漕して利を得たのをはじめとし,貞享年間江戸に進出して材木商として活躍した。火災や寺院建立による建築ラッシュにのり繁栄をきわめ,勘定頭荻原重秀らと結び,上野寛永寺の用材を提供して巨利を得た。この間,俳人の其角(きかく)や画家の英(はなぶさ)一蝶らをつれ,吉原で豪遊した話は有名。経営は投機的で,しかも幕閣と結託していたため,柳沢吉保らの引退と材木の焼失により正徳年間には廃業,隠棲生活に入った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「紀伊国屋文左衛門」の解説

紀伊国屋文左衛門 きのくにや-ぶんざえもん

?-1734 江戸時代前期-中期の豪商。
紀伊(きい)(和歌山県)の人。貞享(じょうきょう)年間に江戸八丁堀で材木問屋をひらき,寛永寺根本中堂造営の用材を調達して巨利をえる。老中柳沢吉保らとむすび,幕府用達(ようたし)として全盛をきわめ,紀文大尽とよばれた。正徳(しょうとく)のころ没落し,深川に隠棲。紀州みかんの江戸回漕,吉原豪遊などの話で知られるが,経歴には不明な点がおおい。享保(きょうほう)19年4月24日死去。

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旺文社日本史事典 三訂版 「紀伊国屋文左衛門」の解説

紀伊国屋文左衛門
きのくにやぶんざえもん

江戸中期の豪商
2代にわたる(1代とする説もある)。紀伊(和歌山県)熊野出身で,江戸で材木商として成功。初代(生没年不詳)はみかんの輸送で蓄財したとされるが,確証はない。2代目(?〜1734)は勘定奉行荻原重秀と結び材木商として巨利を得たという。豪奢な遊興で「紀文大尽」と称されたが,その履歴はいずれも伝説的である。

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世界大百科事典(旧版)内の紀伊国屋文左衛門の言及

【木場】より

…元禄期(1688‐1704)には幕府の建築事業が多かったため,御用材の調達を請け負う大商人が出現した。紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門は代表的商人である。とくに紀文は遊里での豪遊などで著名であった。…

【紀文大尽】より

…作曲4世吉住小三郎,3世杵屋(きねや)六四郎。吉原で豪遊する2代目紀伊国屋文左衛門が,江戸時代の元禄期に巨万の富を得た父紀文が,若き日に悲壮な決意をもって蜜柑(みかん)船で江戸に乗り込む夢を見る。夢からさめて一転して紀文の遊蕩的生態の描写,遊女几帳(きちよう)との色模様くどき,小判の豆まき,大尽舞をきかせる。…

※「紀伊国屋文左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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