築地(読み)ついじ

精選版 日本国語大辞典 「築地」の意味・読み・例文・類語

ついじ ついぢ【築地】

〘名〙 (「ついひじ(築泥)」の変化した語)
① 土で造った垣根。両側に板を立て、内に土をつめ、つき固めて造った塀。須柱があるものとないものとがある。土塀。築地塀。築垣。築地垣。築地まわり。
※竹取(9C末‐10C初)「ついぢのうへに千人、屋の上に千人、〈略〉空ける隙もなく守らす」
※源氏(1001‐14頃)須磨「なが雨に、ついぢ所々崩れてなむときき給へば」
② (大規模な築地塀をめぐらしているところから) 御所、または堂上方・公卿の邸宅。また、公卿。堂上方。
評判記・難野郎古たたみ(1666頃)玉井浅之丞「さだめて京そだちならばついぢのうちの御ながれか」

ついんじ ついんぢ【築地】

〘名〙
浄瑠璃・都の富士(1695頃)四「爰に一きは森深くついんぢ高き御寺有」
② 堂上方(どうじょうがた)公家衆の事。もともと築地塀は堂上方の邸に用いられたところからいう。
浮世草子・棠大門屋敷(1705)二「身が主人儀は亭主が存知のごとく、ついんぢがたの奥勤め

つき‐じ ‥ヂ【築地】

[1] 〘名〙 海や沼などを埋めて築きあげた土地。埋立地。
[2] 東京都中央区南部の地名。隅田川河口の右岸にあり、広くは湊町・明石町(旧鉄砲洲)から浜離宮庭園までの埋立地を含めていう。明暦三年(一六五七)の大火以後に埋め立てられ、本願寺別院(築地本願寺)などが移されて市街地となる。明治元年一八六八)から同三二年まで、鉄砲洲明石町に外国人居留地が置かれ、洋風建築が並び、劇場も多く、文明開化の先端をいく異人町としてにぎわった。

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デジタル大辞泉 「築地」の意味・読み・例文・類語

ついじ〔ついぢ〕【築地】

《「つきひじ(築泥)」の音変化》
柱を立て、板を芯として両側を土で塗り固め、屋根を瓦でいた塀。古くは、土だけをつき固めた土塀。築地塀。築垣つきがき
《屋敷の周囲に築地をめぐらしたところから》公卿堂上方。また、その邸宅。
[類語](1垣根フェンス生け垣忍び返しまがき囲い外郭牆壁しょうへき

つきじ【築地】[地名]

東京都中央区の地名。明暦の大火後の埋め立て地。銀座に接する地域。明治初期には外国人居留地が置かれた。本願寺築地別院東京劇場などがある。

つき‐じ〔‐ヂ〕【築地】

海や沼などを埋めてつくった陸地。埋め立て地。

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日本歴史地名大系 「築地」の解説

築地
つきじ

隅田川河口部の西岸一帯をさす。明暦三年(一六五七)の大火直後の万治元年(一六五八)、市中の瓦礫や残土を利用して木挽こびき町地先の海浜などが築立てられてできた造成地。おおよその範囲は北西は木挽町、北は南八丁堀みなみはつちようぼり裏、北東は鉄砲洲てつぽうず、南西は堀(汐留川)に囲まれる。埋立の際に掘割(築地堀)を埋残して造成地を囲み、また地区内を区分した。築地奉行は長谷川三左衛門、その代理を佐久間宇左衛門が勤めた(御府内備考)。埋立の進行に伴い築地には明暦三年の大火で焼失していた本願寺(築地本願寺、現築地別院)が移転、南東部には南飯田みなみいいだ町・上柳原かみやなぎはら町・南小田原みなみおだわら町などが立地、その他ははま御殿(現浜離宮庭園)が一部を占め、また武家屋敷地に分割された。海や築地堀に面して河岸が設けられ、漁民や小商人・雑業者らの長屋など小規模な家屋も点在し、江戸へ向けて全国から年貢米や物産を輸送する船舶が出入りした。幕末には幕府陸海軍の要衝として海軍操練所(元治元年創立)が設置された。

幕末開港を経て東京開市の現実により、明治元年(一八六八)に築地は諸外国に開放されて外国人居留地が建設され、築地と港町横浜との関係が強まる。すなわち横浜港へ輸入された「舶来品」は小船に積替えられ、羽田はねだ沖を北上して隅田川河口の運上所を経由、日本橋などの問屋街に搬入される仕組であった。

築地
つきじ

[現在地名]秋田市南通築地みなみどおりつきじ南通宮田みなみどおりみやた南通みなみどおりみその町・楢山佐竹ならやまさたけ町の各一部

築地の名を冠する町には、明治一九年(一八八六)の「地方行政区画便覧」によれば、築地きた町・同東上ひがしかみ町・同くぼ町・同四ッ辻よつつじ・同南横みなみよこ町・同上本かみほん町・同下本しもほん町・同下東しもひがし町・同なか(現南通築地)、築地北町(現南通宮田)、また築地なか町・同西にし(現南通みその町)、築地下東しもひがし(現楢山佐竹町)がある。

築地は埋立地の意である。「国典類抄」の「御本城枝城」には「築地数丁は長野下より継、郭外也。延宝元丑年屋敷割、同寅年四月移る」とあるが、梅津忠宴の「忠宴日記」延宝元年(一六七三)三月二三日条と併せ考えると、延宝元年前後に、長野下に引き続き、築地が造成された。

築地
つきじ

[現在地名]両津市夷 築地

えびす町の加茂かも湖側(川方)にある。「両津町史」によると、南北の本町ほんちよう通に軒を並べる一本町であった夷町では、安永六年(一七七七)仁吉以下二七名から湖岸の埋立申請が出されて、同八年に完成。この時の畑屋敷反別坪割帳(若林光伸氏蔵)によると、本町西側裏通り三二一坪が埋立てられた。その後文政一〇年(一八二七)佐渡奉行泉本正助の湖岸巡視の際、夷町仁平次以下五一人の湖水埋立が許可された。天保三年(一八三二)の佐州賀茂郡夷町新畑検地帳(同氏蔵)によると、さらに湖水寄りに面積一千四二六坪が埋立てられ、すべて「字川方」と記されている。

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改訂新版 世界大百科事典 「築地」の意味・わかりやすい解説

築地 (ついじ)

築泥(ついひじ)からの転で,字のごとく本来は練り土を積み上げて造った塀。現在知られている最も本格的なものは,1尺(約30cm)ほどの石垣積みの基礎上の両側に6~10尺ごとに須柱(すばしら)と呼ばれる柱を立て,その外面に幕板という仮枠をあててその中に練り土を入れ,棒で突き固める〈版築(はんちく)〉という手法による。柱上に簡単な小屋を組み瓦葺きとする。《延喜式》によれば,最上のものは高さ1丈3尺(約4m),最下部の厚さ6尺(1.8m),最上部の厚さ4尺(1.2m)におよぶ。こうした本格的なものは寺院や官衙などに用いられ,平安貴族の住宅では須柱がなく,屋根も板葺きの上に土をのせる程度の簡素化されたものが一般的だった。築地は格式を表現するものでもあり,1030年(長元3)には六位以下の者の住宅に築地をめぐらすことが禁じられている。また後世には御所や格式の高い寺院では壁面に定規筋(じようぎすじ)と呼ぶ白色の横筋を入れる〈筋塀(すじべい)〉が使われた。筋の数は格式によって異なり,最高は5本であった。また,城門の前に築かれた堤を築地と呼び,石垣を築地という地方もある。
執筆者: 築地は古代以来,宮都,城柵,国郡衙,寺院等の境域を区画するために設けられた。大規模なものは大垣とよばれ,平城京の南面大垣は高さ約12mにも達し,陸奥の多賀城の南辺では幅15~17m,高さ2mの基礎盛土の上に基底幅2.7mの築地が築かれた。これらは崩れた跡が土塁と識別できないので,実体は官衙であった古代の城柵が,永らく土塁をめぐらした軍事施設とだけみなされてきた原因となった。基礎盛土の大規模なものは土塁とみなすことも可能であるが,概念的には築造の中心が塀の部分であることに留意して築地と土塁を区別することができる。
 →土居
執筆者:

築地 (つきじ)

東京都中央区南部の地名。隅田川右岸に接し,西は首都高速道路1号線に限られる。行政上は築地,明石(あかし)町,湊,入船,新富(しんとみ)の各地区からなる。明暦の大火(1657)後,江戸市中の焼土を利用して埋立地として造成されたもので,名称もそこに由来する。浄土真宗本願寺派別院(築地本願寺)が日本橋浜町から移転し,これを中心に江戸時代は備中岡山藩中屋敷や浜御殿(現,浜離宮公園)などの武家地が大半を占めていた。幕末期に軍艦操練所,明治維新後も海軍操練所海軍大学校がおかれるなど,帝国海軍発祥の地となった。1858年(安政5)福沢諭吉が鉄砲洲に私塾を開き,慶応義塾大学の前身をなしたことでも知られる。1868年(明治1)には外国人居留地(築地居留地)が設けられ,外国人用旅館兼貿易所であった築地ホテル館をはじめ洋風建築が建てられた。現存する海上保安庁や聖路加病院は当時のなごりである。居留地内には教会や立教大学の前身である聖パウロ学校も開設され,東京におけるキリスト教伝道活動の根拠地ともなった。居留地付近には新島原遊廓が設けられ,また東京で初めての製靴工場や活版印刷所がおかれるなど,一時はかなりのにぎわいを見せたが,99年居留地の廃止とともに活気を失っていった。関東大震災後,日本橋河畔から移転した魚市場が東京中央卸売市場となって広域を占め,〈築地〉はこの市場の代名詞ともなっている(卸売市場)。この市場周辺には国立がんセンター,朝日新聞東京本社などがある。築地は1924年に築地小劇場が開場したことでも知られるが,現在は東劇,松竹会館(跡地は現在のADK松竹スクエア)があり,近くの歌舞伎座,新橋演舞場とともに映画・演劇の一中心をなしている。
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百科事典マイペディア 「築地」の意味・わかりやすい解説

築地【つきじ】

東京都中央区,隅田川右岸の一地区。17世紀後半から埋め立てられ,1657年の明暦の大火後,西本願寺が移転,市街地化した。明治初期,外人居留地が設けられ,以後海軍大学校,地質調査所福沢諭吉の塾などができた。西本願寺のほか魚河岸,海上保安庁水路部,朝日新聞社がある。
→関連項目海軍操練所京橋銀座中央[区]日本橋魚市

築地【ついじ】

土で造った(へい)。多く屋根をふき,木骨で1間(けん)ごとに柱(須柱)を立て,壁面に横筋をつける。古くは御所のほかは有職(ゆうそく)の者にのみ許され,格式により筋の数が異なった(5本が最上)。
→関連項目犬走り

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「築地」の意味・わかりやすい解説

築地
つきじ

東京都中央区南部,隅田川河口右岸の地区。明暦3(1657)年の明暦の大火ののち低湿地が埋め立てられたところで,多数の大名屋敷があった。日本海軍の発祥地で,1923年の関東大震災後には日本橋から魚市場(→魚河岸)が移り,2018年10月まで青果,食肉も含めた中央卸売市場として都民の台所をまかなっていた。築地本願寺朝日新聞社国立がん研究センターなどもある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「築地」の解説

築地
ついじ

築地塀・築垣(ついがき)とも。粘土を築いてつくった塀で,上に屋根を葺(ふ)いたもの。古代の宮殿や寺院では,版築(はんちく)技法で粘土を下から突き固めて瓦葺(かわらぶき)にしたが,住宅では木の板を芯(しん)にしてその表面に粘土を塗り重ね,屋根も板葺が一般的。近世に瓦が大量に供給されると,住宅の築地も瓦葺になった。表面に漆喰(しっくい)を塗るようになるのも後のことで,中世までの住宅では門の両脇だけ漆喰を塗り,これを脇壁とよんだ。現存最古のものに,法隆寺西院大垣・同子院築垣がある。通常,壁面に堰板(せきいた)の木目が縞状に現れ,須柱(すばしら)(寄柱)を添えた例も多い。なお,御所や門跡寺院では築地表面に横筋をいれた筋塀を用いるが,その由緒は不明。

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家とインテリアの用語がわかる辞典 「築地」の解説

ついじ【築地】

土をつき固めて作った垣の上部に瓦(かわら)や板で屋根をふいた塀。木の柱を設けるもの、横筋を入れるものなどもある。飛鳥(あすか)時代に仏教とともに伝わったとされ、法隆寺西院のものは国の重要文化財に指定されている。◇「築地塀」ともいう。

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防府市歴史用語集 「築地」の解説

築地

 場所を区画するための土塀です。塀の上には屋根がついています。

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世界大百科事典(旧版)内の築地の言及

【垣】より

…建物や敷地などの周囲を囲むように作られた工作物や植栽で,材料,形式によって多くの種類がある。塀もほぼ同じ意味で使われ,築地(ついじ)は築地塀あるいは築垣(ついがき)とも呼ばれた。一般に,板塀や土塀のように表面が連続して平滑な面をなすものを塀,間隙の多いものを垣と呼ぶ傾向がある。…

【塀】より

…後者の代表的な遺例としては日光東照宮のものがよく知られている。土塀としては粘土を築き上げた築地(ついじ)塀,瓦と粘土を交互に積み重ねて築いた練(ねり)塀があり,いずれも瓦葺きの屋根を設ける。築地塀は単に築地あるいは築垣(ついがき)ともいい,築泥(ついひじ)から変化したものという。…

※「築地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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