箕作村(読み)みつくりむら

日本歴史地名大系 「箕作村」の解説

箕作村
みつくりむら

[現在地名]栄村大字さかい

千曲川南岸沖積地及び苗場なえば(二一四五・三メートル)鳥甲とりかぶと(二〇三八メートル)佐武流さぶり(二一九一メートル)白砂しらすな(二一三九メートル)の西方を村域とする。東は現新潟県南魚沼郡、南は現群馬県吾妻あがつま郡に接し、西は野反のぞり池川口から中津なかつ川上流の魚野うおの川、同支流の雑魚ざつこ川を境に現下高井郡に接する。上信越高原国立公園の山岳部を含む広大な村である。

千曲川南岸沖積地に本村箕作集落及び月岡つきおか組があり、西の小箕作こみつくり川中流に泉平いずみだいらがある。野田沢のたざわ台地の北端千曲川岸に小滝こたき、台地上に野田沢・程久保ほどくぼ大久保おおくぼ志久見しくみ川中流段丘上に長瀬ながせ笹原ささはら当部とうべ北野きたの中野なかのの小集落が散在する。中津川上流東岸に小赤沢こあかさわうえはら和山わやま湯本ゆもと(現切明きりあけ、西岸に屋敷やしきの集落があり、この地域を総称して秋山あきやまという(→秋山

箕作村
みつくりむら

[現在地名]下田市箕作

落合おちあい村の西、東流する稲生沢いのうざわ川の北岸、南流して同川に合流する稲梓いなずさ川の東岸に位置する。下田街道が通る。北条氏所領役帳には河越衆の渡辺次郎三郎の役高として一二〇貫文「箕作」とみえる。天正一四年(一五八六)一〇月一八日の北条家朱印状(三嶋大社文書)によると、箕作など一〇ヵ所は三嶋社(三嶋大社)祭銭を出す義務を負っているが未進となっており、翌一五年四月二日の北条家朱印状(旧伊豆在庁文書)でも当郷以下四ヵ所が神事銭の提出を督促された。池田いけだには長さ約一キロの用水がある(延享二年「書上帳」伊豆下田)

天正一八年一二月の箕作村御縄打水帳(東京大学史料編纂所蔵)では田畑三三町九反余、屋敷地一千七八八坪・所有者二八人。

箕作村
みつくりむら

[現在地名]会津高田町旭三寄あさひみよせ

三方に山がめぐり、北は田となる。北西は岩淵いわぶち村、北東はきた村。南は小丘を越すと最初に住みついた所と伝える古箕作沢こみつくりさわに通じる。この沢に住みつき箕を作っていたので村名としたが、洪水に悩まされて現在地へ移住したという。武田信玄の家臣を祖とすると伝える。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、東尾岐組に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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