筑紫箏(読み)ツクシゴト

デジタル大辞泉 「筑紫箏」の意味・読み・例文・類語

つくし‐ごと【×筑紫×箏】

筑紫流」に同じ。
筑紫箏曲そうきょくで用いる箏。また、俗箏ぞくそうは筑紫流から生じたので、これらを雅楽の箏(楽箏)と区別していう。筑箏ちくそう

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改訂新版 世界大百科事典 「筑紫箏」の意味・わかりやすい解説

筑紫箏 (つくしごと)

邦楽の種目,楽器名称。天文(1532-55)ころ,筑紫善導寺の僧賢順が,それまで寺院歌謡として伝承されてきた箏伴奏の歌曲を,組歌形式に編集した箏曲をいうが,以来,箏曲に用いられる箏を雅楽の箏と区別して筑紫箏ともいい,また,近世箏曲全体の総称として,筑紫箏ということもある。狭義には,盲人音楽家に伝承された普通の箏曲を除外する。筑紫楽といった場合は,善導寺に行われていた雅楽をいう。賢順以降,玄恕(げんじよ)(1606-49,1662年死亡説もある),法水(生没年不詳)などの僧に継承され,江戸に下った法水から八橋検校に伝えられたものは,盲人伝承の箏曲として改革されたが,玄恕以降,北九州で伝承されたものは,八橋改革以前の古態を遺存して,主に佐賀藩士や同地の儒者,神官,医師などのあいだで愛好された。しかし,厭誉(?-1758)のころには,賢順・玄恕の時代のものとはかなりの異同を生じた。一方,1739年(元文4)江戸に下った佐賀藩士村島政方(まさみち)(1702?-43?)は,〈鎮西楽〉あるいは〈筑紫流〉などとも称して江戸に広め,その門下から,紅葉山楽人といわれる猪崎律斎(いのざきりつさい)などが出,その系統から筑紫箏の詞章本《筑紫流箏唱歌》(1821)を公刊した都筑景一が出た。政方の佐賀における門下の系統は,他系の吸収にもつとめ筑紫箏の復興を図り,今泉千春(1775-1836)は,それまでの伝承を整理して,《松響閣箏話》などを著した。その子千秋から野田聴松を経て,現代の伝承者へと伝えられたが,村井れい(1887-1958)の没後は,井上ミナ(1895-1995)一人が伝承するのみとなってしまった。

 賢順作曲と伝える古曲を〈十曲〉または〈詠曲〉と称し,ほかに〈秘伝(秘詠)〉〈奥儀(奥詠)〉と称する秘伝曲もあるが,それらの分類および曲目は,時代による異同が著しい。猪崎律斎の伝承には,〈素楽〉と称する器楽曲もある。筑紫箏に用いる箏は,雅楽の箏に準じ,爪はやや改良したものを用いる。調弦法も雅楽の音階に基づくが,八橋の本雲井調子と同様な調弦もある。なお,野田聴松に学んだ鈴木鼓村は,1901年,京極流と称する新たな箏曲を創始した。なお,福岡の筑紫(ちくし)歌都子が称する筑紫流は,筑紫箏とは無関係である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「筑紫箏」の意味・わかりやすい解説

筑紫箏
つくしごと

日本音楽の一種、およびそれに用いられるチター型弦鳴楽器の名称。広義には、八橋検校(やつはしけんぎょう)以降の箏曲(そうきょく)およびそれに用いられる箏も含めるが、一般には、室町時代に雅楽と中国の七絃琴(しちげんきん)の音楽の影響下に、九州久留米(くるめ)の善導(ぜんどう)寺において賢順(けんじゅん)が大成させ、のちに佐賀藩とその江戸屋敷を中心に、盲人社会以外の同好者によって行われたものをいう。後世、「筑紫流箏曲」ともよばれ、俗箏(ぞくそう)と区別された。筑紫箏に用いる箏は雅楽の箏を用いるが、爪(つめ)は雅楽のものより細長い。調弦法は、雅楽の大食調(たいしきちょう)を模したものを基本とし、かつては、その絶対音高が定められて「十二調子」と称する調子があったらしいが、現行は俗箏と同じく、その絶対音高は重視されない。なお楽曲は、賢順作曲と伝えられる古曲を「十曲」または「詠曲」といい、その他に「秘伝(秘詠)」「奥儀(奥詠)」などがあるが、時代によりその曲目や詞章に異同が著しい。

[平山けい子]

『岸辺成雄・平野健次「筑紫箏調査報告」(東洋音楽学会編『東洋音楽研究』28・29号所収・1969・音楽之友社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「筑紫箏」の意味・わかりやすい解説

筑紫箏
つくしごと

日本音楽の種目名,およびその楽器。室町時代の寺院雅楽から発展した「越天楽謡物 (えてんらくうたいもの) 」などの寺院歌謡には,おもな伴奏楽器として箏が用いられていたらしい。特に九州久留米の善導寺では,僧賢順が天文年間 (1532~55) 以降に,善導寺に行なわれていた雅楽の善導寺楽または筑紫楽と呼ばれていたもののなかから,箏伴奏の歌曲を独立させ,組歌形式の箏曲として創始した。これを,後世「筑紫箏」または「筑紫流箏曲」と呼び,賢順の弟子法水が江戸へ出て八橋検校に伝え,八橋によって改訂が加えられて以後,目の不自由な音楽家を中心に伝承された生田流,山田流などの近世箏曲と区別した。「筑紫箏」は,佐賀藩およびその江戸屋敷を中心に,職業的演奏家の専業ではない同好者の音楽として行なわれ,江戸では村島政方,猪崎律斎などが知られた。佐賀では今泉千春,今泉千秋から野田聴松を経て現代に伝えられ,唐津の村井れい (1887~1958) ,大阪の井上ミナ (1895~1995) が伝承者であった。楽曲は,賢順以来の「十曲」といわれる組歌形式の歌曲を中心として,その他の秘伝曲も一部伝えられているが,『輪 (倫) 説』を除いてすべて歌曲であり,調弦法は雅楽の太食 (たいしき) 調を模したもので,黄鐘 (おうしき) 調呂旋の調弦を移したものとも考えられる。

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世界大百科事典(旧版)内の筑紫箏の言及

【今様】より

… 今様の歌詞を,雅楽の唱歌(しようが)の節(楽器の部分を代りに歌う),特に《越殿楽(えてんらく)》の節をつけて歌うことが平安時代中期からおこり,仏教行事の〈延年〉などで行われた。このような〈越殿楽今様〉の中で箏を伴ったものが〈筑紫箏(つくしごと)〉に発展して箏曲の基礎となった。また一弦琴に取り入れられたり,筑前地方の民謡〈筑前今様〉が《黒田節》として歌われたり,さらに明治時代の学校唱歌や賛美歌にも旋律が取り入れられるなど,近世歌謡への影響が大きい。…

【賢順】より

筑紫箏(つくしごと)の箏曲の始祖。宮部日向守武成の子。…

【箏】より

…牙箏は高麗時代には唐楽にのみ用いられたが,李朝成宗ころより郷楽にも用いられるようになった。
[日本]
 奈良時代に中国の唐制13弦箏が伝えられたのが日本における箏の始まりであり,その後,箏の音楽に雅楽の箏,寺院歌謡の箏ないし筑紫箏(つくしごと),近世箏曲および沖縄箏曲という三つの流れが生じた。しかし,楽器の構造は基本的には三者同じで,大きな細長い胴と,その上に水平に張った13本の絹弦(近年はナイロン弦,テトロン弦もある)と,13個の柱より成り,右手の拇指,食指,中指に義爪をはめて弾ずる。…

【箏曲】より


[歴史と分類]
 寺院芸能の一つとして行われていた〈越天楽歌物(えてんらくうたいもの)〉の類の歌曲を,組歌形式の箏伴奏のものに編集したのは,筑紫善導寺の僧の賢順であった。以後,この歌曲を,〈筑紫箏(つくしごと)〉ないし〈筑紫流箏曲〉といった。賢順の弟子の法水に学んだ盲人音楽家の八橋検校(やつはしけんぎよう)は,寛永(1624‐44)の中ごろ,庇護者である磐城平藩主内藤風虎の編詞によって,陰音階の調弦による箏伴奏の新しい組歌を作曲,これを普及させた。…

【日本音楽】より

…尺八の同類である一節切(ひとよぎり)も輸入され,このほうは一般庶民の楽器として,箏や三味線と合奏されたり,流行歌や民謡を吹くことにも用いられた。また,僧徒の遊宴で行われていた延年と称する総合芸能の中に〈越天楽歌物〉も含まれていたが,それらに基づいて北九州に筑紫流(つくしりゆう)箏曲(筑紫箏)が興った。社会的にも混乱の時代であった室町後期は,芸能の面においても混乱の時代であったといえる。…

※「筑紫箏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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