等持院門前(読み)とうじいんもんぜん

日本歴史地名大系 「等持院門前」の解説

等持院門前
とうじいんもんぜん

[現在地名]北区等持院〈北町きたまち中町なかまち西町にしまち東町ひがしまち南町みなみまち

東は松原まつばら北野きたの村、北は大北山おおきたやま村、南は大将軍だいしようぐん村、西は龍安寺門前りようあんじもんぜん村と接する。暦応年間(一三三八―四二)に中興された等持院の門前に開かれた村。

元禄二年(一六八九)刊「京羽二重織留」は、「等持院」として村の概要を「東西四町二十間・南北一町三間、家数七十三間・外寺一ケ所、石高百二十四石九斗八升三合、内二十四石九斗八升三合 仁和寺領、同百石 等持院領」と記す。享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳には村高一三〇石九斗九升余とあり、仁和にんな寺・等持とうじ院の石高は「京羽二重織留」に同じであるが、ほかに龍安りようあん寺領四石二斗八升余、妙心みようしん寺の一石七斗二升余を加えている。近世後期には村の南側には薩摩藩の屋敷があった(改正京町御絵図細見大成)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報