竹内久一(読み)たけうちきゅういち

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竹内久一」の意味・わかりやすい解説

竹内久一
たけうちきゅういち

[生]安政4 (1857).7.9. 江戸浅草
[没]1916.9.24. 東京
彫刻家。幼名兼五郎。号は久遠。初め堀内龍仙,川本洲楽に師事して象牙彫刻を学び,次いで 1880年奈良見物のおり古仏像に感銘木彫再興を志して正倉院御物 (現宝物) や社寺古美術研究,模作した。1893年シカゴ万国博覧会に『伎芸天像』 (→伎芸天。東京芸術大学大学美術館) を出品,木彫着色に優れ,高村光雲石川光明とともに明治初期三大彫刻家の一人に数えられた。東京美術学校彫刻科初代教授,文展審査員,帝室技芸員を務め,後進の木彫指導にも尽した。

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朝日日本歴史人物事典 「竹内久一」の解説

竹内久一

没年大正5.9.24(1916)
生年:安政4.7.9(1857.8.28)
明治期の木彫家。幼名兼五郎。号は久遠。江戸浅草生まれ。父善次郎は歌川国芳門人浮世絵をよくした。はじめ象牙彫刻を学んだが,明治13(1880)年に観古美術会で奈良の古像を見て感銘を受け,木彫を志す。15年より2年間奈良に滞在して社寺の古彫刻を研究し,古仏の優れた模刻像を多数制作した。東京美術学校(東京芸大)の創立(1889)に岡倉天心らと尽力し,彫刻科の初代教授となる。39年,帝室技芸員に任じられた。生粋江戸っ子で,伝統的な主題を,古典的な様式と近代的写実のあいまった作風で表現した。代表作は「神武天皇像」,「伎芸天」(東京芸大蔵)など。

(山梨絵美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹内久一」の意味・わかりやすい解説

竹内久一
たけうちひさかず
(1857―1916)

明治、大正の彫刻家。江戸生まれ。幼名兼五郎。象牙(ぞうげ)彫師堀内竜仙の弟子となり、川本洲楽の門に入った。1881年(明治14)内国勧業博覧会に牙彫(げちょう)で受賞したが、古美術の研究を志し、東京美術学校開設のとき教師となり、91年教授となった。93年シカゴ万国博覧会に『伎芸天』を出品して大いに好評を得、1906年(明治39)には帝室技芸員に推され、文展開設後は審査員を歴任した。門下からは白井雨山(うざん)、沼田一雅(かずまさ)らを輩出した。『日蓮上人(にちれんしょうにん)』などの代表作のほか、古彫刻の修復に秀でていた。

[三木多聞]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹内久一」の解説

竹内久一 たけのうち-ひさかず

1857-1916 明治-大正時代の彫刻家。
安政4年7月9日生まれ。はじめ象牙(ぞうげ)彫刻家として独立したが,奈良の古仏にであい木彫をこころざす。東京美術学校(現東京芸大)開設とともに教師となり,明治24年教授。白井雨山らの門弟をそだてた。代表作に「技芸天(ぎげいてん)」「日蓮(にちれん)上人」など。大正5年9月24日死去。60歳。江戸出身。号は久遠。

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旺文社日本史事典 三訂版 「竹内久一」の解説

竹内久一
たけうちきゅういち

1857〜1916
明治時代の彫刻家
江戸に生まれ,初め象牙彫を学んだが,転じて平安彫刻を研究。木彫の復興を志す。1891年東京美術学校彫刻科の初代教授,のち文展審査員となった。代表作に『伎芸天』。

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世界大百科事典(旧版)内の竹内久一の言及

【大自在天】より

秋篠寺に伎芸天であるとの伝承をもつ木造立像(重要文化財)が所蔵されるが,頭部以外は鎌倉時代の補作で,当初の形像は不明である。礼拝像としての伎芸天像はほとんど知られていないが,明治時代に木彫界で活躍した竹内久一(きゆういち)(1857‐1916)が1893年シカゴ万国博覧会に出品した作品に《伎芸天像》の大作がある。【関口 正之】。…

※「竹内久一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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