競馬(けいば)(読み)けいば

日本大百科全書(ニッポニカ) 「競馬(けいば)」の意味・わかりやすい解説

競馬(けいば)
けいば

騎手が騎乗する馬が一定の距離を競走する競技のことをいう。本来、馬の改良、畜産振興を目的とするが、スポーツ的要素とギャンブル的要素を兼ねた娯楽として、大衆に迎えられている。

[大島輝久・日本中央競馬会]

歴史

文献にみられる世界で最初の競馬は、紀元前800年ごろギリシアの詩人ホメロスの叙事詩『イリアス』に出てくる戦車競馬である。戦車競馬は古代ギリシアのオリンピック競技種目に加えられている。日本の古代競馬には、くらべ馬(競馬)の神事(馬の品格、能力などを比べる)がある。馬を神の乗り物として信仰し、祭礼の奉納競馬として行われた。最初の記録は701年(大宝元)宮廷で行われた競馬で、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に「群臣五位以上をして競馬を出さしめ天皇臨御し給へり」とある。その後も、きそい馬、くらべ馬、駒競(こまくらべ)ともいわれ、宮廷儀礼として続いたが、968年(安和元)ごろに廃止され、鎌倉時代以後は武士の馬術訓練を目的とする武術競技として行われた。いまも残る京都・賀茂(かも)神社のくらべ馬神事は、1093年(寛治7)堀河(ほりかわ)天皇が豊作と天下太平を祈願して馬料の荘園(しょうえん)を寄進されてから、例年催されるようになったもので、古代の儀礼をそのまま伝えている。

 現在行われている近代競馬は、イギリスを発祥とする。1377年ニューマーケットで行われた皇太子(後のリチャード2世)とアルンデル伯爵のマッチレースが、イギリス最初の競馬とされている。1665年ニューマーケットの円形馬場で王室賞典競走が行われたと記録にあるが、円形馬場といっても、高原にカーブのあるコースを設けただけの簡単なものであった。賭(か)けを伴う貴族たちの競馬が盛んになると、より速く走る馬の需要が高まり、1689年にバイアリーターク、1706年にダーレーアラビアン、1730年にゴドルフィンバルブという、大きなアラブ産牡馬(ぼば)が輸入され、イギリス土産馬ポニーの牝馬(ひんば)に配合された。人間が創造した最高の芸術品といわれるサラブレッド生産の歴史がここに始まる。輸入されたこのアラブ産種牡馬3頭をサラブレッドの三大基幹種牡馬という。バイアリータークからヘロド、ダーレーアラビアンからエクリップス、ゴドルフィンバルブからマッチェムという名馬が誕生し、この3頭を三大種牡馬という。

 イギリスを元祖とする競馬は、ヨーロッパ各国のほか、アメリカ、オーストラリアアラブ首長国連邦、香港(ホンコン)などを含み、世界80か国以上で行われている。世界のサラブレッドの総数は40万頭前後といわれ、日本だけでも2007年(平成19)の生産数が約7400頭、総数は2万頭を超えている。これら現在のサラブレッドの血統をさかのぼれば、すべて三大基幹種牡馬のいずれかが祖になる。母系は原則的にゼネラル・スタッドブック(血統登録書)の第1巻(1791)に登録された馬までたどることができる。

 日本における近代競馬は、横浜の在留外国人が横浜市元町(もとまち)で1862年(文久2)に行ったのが最初で、同年横浜レース・クラブが組織されている。1866年(慶応2)に根岸競馬(現在、根岸競馬記念公苑(こうえん)がある所)が設けられ、翌年から春秋二季に競馬が行われていたが、1876年(明治9)、日本人をクラブに加入させるかどうかについて、会員の間で意見が対立し、不満派は別に横浜レース・アソシエーションを組織した。しかし、互いに経済的に成り立たなかったため、1878年、両組織は解散して新たに横浜ジョッキー倶楽部(くらぶ)が組織され、1880年には発展的改組を行い、日本レース倶楽部となった。東京では1870年9月、九段の招魂社競馬が兵部省主催で初めて行われた。1872年5月兵部省が廃止されてからは、陸軍省がこれを継ぎ、年3回の例大祭に開催した。その後、用地の立地条件が競馬には不適当とされ、1898年以降中止され、1901年(明治34)9月には競馬場も廃止された。

 1879年5月、第18代アメリカ大統領グラント夫妻、ドイツ皇族、イタリア皇族が来日したとき、東京の陸軍戸山学校内に馬場を設けて競馬を開催し、観覧に供した。この年、軍人と軍馬によって行われていた競馬に、民間希望者の出場が許され、民営の共同競馬会が設立された。これを共同競馬とよんだが、戸山学校の馬場が交通不便なことから参観人が少なく、1884年に上野の不忍池(しのばずのいけ)畔に馬場を移転した。これを不忍池競馬といった。1890年には第3回内国勧業博覧会の余興として競馬が開催され、初日に明治天皇が行幸し、賞品の下賜もあった。この不忍池競馬は1892年まで続いた。また1877年、馬匹改良を目的として設置されたのが三田(みた)育種場競馬で、明治天皇が6回行幸した。この競馬は1890年に廃止された。

 このほか札幌、函館(はこだて)、宮崎、鹿児島の各馬産地で競馬場が設置され、それぞれ競馬倶楽部を組織して競馬が行われた。1888年(明治21)秋、日本レース倶楽部が、1枚1ドルの馬券を発売したことによって倶楽部の経営が円滑となり、競馬が事業として隆盛に向かった。また、日清(にっしん)・日露の戦争で軍馬の劣勢を痛感し、軍馬の増産、育成の必要からも競馬は奨励され、1905年(明治38)政府は馬券発売を黙許することとした。翌1906年、加納久宣(かのうひさのぶ)子爵、安田伊左衛門(やすだいざえもん)により東京競馬会が創設され、同年11月24日、25日と12月1日、2日の4日間、池上競馬場で馬券を発売して競馬を行った。このほか、日本レース倶楽部の根岸競馬、日本競馬会の目黒競馬、さらに川崎、板橋、松戸(千葉県)、鳴尾(兵庫県西宮市)、札幌、宮崎など各地方の競馬も馬券を発売したが、いずれも無制限配当であったためギャンブル性が強まり、社会的にも弊害が生じ、非難と批判の声が高まった。

 ついに1908年(明治41)10月、馬券発売禁止令が発せられ、かわって補助金による競馬が行われたが、馬券を楽しむファンの支持を失ったため競馬事業は不振に陥り、馬匹生産も衰微するばかりであった。この結果、本来の目的とされた馬匹改良事業に支障をきたしたため、1923年(大正12)3月、加藤友三郎内閣第46議会で、政府の対策案として競馬法案が提出され、貴衆両院を通過成立した。この法令により、競馬は営利事業とせず公益法人とし、その運営は競馬法によって勝馬投票券(馬券)発売認可を受けた競馬団体に限ることとなった。団体の数を11(東京、横浜、中山、京都、阪神、宮崎、小倉(こくら)、新潟、福島、札幌、函館)に制限し、連絡機関として帝国競馬協会が設立され、馬券を発売する競馬が復活した。初代理事長は安田伊左衛門である。11の競馬団体と帝国競馬協会は1936年(昭和11)12月に解散し、政府の特別監督下にある特殊法人日本競馬会が創立され、松平頼寿(まつだいらよりとし)が初代理事長に任命された。1941年太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)し、戦時下の国策から1944年競馬は能力検定競走にかわったが、それも1945年には完全に中止された。

 戦後1946年(昭和21)10月に再開され、1948年7月芦田均(あしだひとし)内閣により国営になったが、1954年9月民営に移管され、各競馬場の施設その他(当時の評価額約50億円)は政府の全額出資とし、公共性の強い特殊法人日本中央競馬会(初代理事長安田伊左衛門)が設立され、現在に至っている。

[大島輝久・日本中央競馬会]

中央競馬の運営と仕組み

日本中央競馬会(JRA:Japan Racing Association)は農林水産省(畜産局競馬監督課)の監督下にあり、競馬の施行、開催のいっさいの権限をもつ。レースに出走する馬は馬主の所有で、馬主はこれを調教師に預託し、調教師は厩務員(きゅうむいん)、調教助手を雇用し、騎手と騎乗契約を結ぶ仕組みになっている。馬主になるには馬主登録審査委員会の審査を経なければならない。レースに参加する馬は競走馬登録をし、このとき血統書、預託契約の証明書などをつける。

 日本中央競馬会は、各競馬の1開催を12日以内と定め、開催日程、レース番組、賞金などを決定する。法律で認められている競馬場(2009現在)は、東京(府中市)、横浜、中山(千葉県船橋市)、京都(伏見(ふしみ)区淀(よど))、阪神(兵庫県宝塚市)、中京(愛知県豊明(とよあけ)市)、小倉(北九州市小倉南区)、宮崎、新潟、福島、札幌、函館の12か所。ただし横浜、宮崎では開催されない。法律により前記12の競馬場ごとに年5回以内の開催権が認められており、日本中央競馬会は年間288日の開催権をもつ。

 レースの賞金、賞品、生産者その他への助成金、競馬開催費用、日本中央競馬会運営費用などは、すべて馬券売上げの控除金でまかなわれる。控除率は25%で、10%は第一国庫納付金として国庫に入り、あとの15%が競馬施行に伴ういっさいの費用にあてられるが、剰余金はその50%が第二国庫納付金と定められている。政府は日本中央競馬会からの納付金の4分の3を畜産振興の助成金に、4分の1を社会福祉事業の助成金にあてている。

[大島輝久・日本中央競馬会]

中央競馬の番組

中央競馬はサラブレッド系の平地競走障害競走、アラブ系の平地競走の3種類のレースを施行していたが、1995年(平成7)まででアラブ系のレースは廃止された。サラブレッド系とは軽種(サラブレッド、サラブレッド系種、アングロアラブ、アラブ、アラブ系種)と、軽半血種(中間種、中半血種に連続二代軽種を交配したもの)である。アラブ系とは、軽種および軽半血種のうち、アラブ血量が25%以上の馬である。

 出走馬の年齢制限は、平地競走は2歳以上とされる。日本の競馬界では馬の年齢を数え年で表していたが、2001年から生まれた年が0歳、翌年が1歳と表すようになり、出生日から満2年を経過して初めて出走できる。2歳時は2歳馬どうしのレースが組まれ、明けて3歳になると、6月ごろまで3歳馬どうしのレースが組まれ、その後は4歳以上の古馬との混合レースになる。障害競走に出走できるのは3歳以上の馬で、出生日から満3年を経過していなければならない。

 レースの距離は、平地競走では、2歳馬は800メートル以上、3歳からは1000メートル以上と規定されている。2009年(平成21)には2歳競走が1000メートルから2000メートル、3歳以上は1000メートルから3600メートルまでのレースが組まれた。また、障害競走の規定は2000メートル以上で、2750メートルから4250メートルのレースが組まれた。

 レースはコースの種類により、芝(ターフ)コースと砂(ダート)コースがある。また東京と中京と新潟競馬場は左回りでレースを行うが、その他の競馬場は右回りでレースを行う。

 レースにあたり出走馬が背負う重量を負担重量という。騎手とその装具(鞭(むち)と帽子を除く)のほか、鞍(くら)(付属品を含む)、鞍下毛布、ゼッケン(番号ゼッケンを除く)、しりがい、綱などの合計重量である。負担重量の種類は、馬齢重量ハンディキャップ、別定重量の3通りある。馬齢重量は、馬の年齢、性別、出走月によって負担する重量を定めたもので、牝馬は2歳の10~12月は1キログラム、3歳以降は2キログラムで、牡馬より軽く定められている。ハンディキャップは主として特別レースおよび重賞レースに採用されている。馬の能力差を負担重量によってカバーして、各出走馬に勝つチャンスを与えるもので、ハンディキャッパーに任ぜられた者が、各馬の能力、持ちタイム、脚質、最近の状態などを勘案して負担重量を決める。別定重量には大別して二つの方法がある。一つは基礎重量を定めて、これに過去の収得賞金額、勝利度数または特定レースの成績などを参考にして加増する方法、もう一つは性別または年齢別に重量差を設け、出走全馬に一定の重量を負担させる定量制である。

 高額賞金の大レースには3歳馬五大クラシックの桜花(おうか)賞、皐月(さつき)賞、東京優駿(ゆうしゅん)(日本ダービー)、優駿牝馬(オークス)、菊花(きっか)賞のほか、春秋2回の天皇賞、ファン投票による有馬(ありま)記念があり、これを八大レースとよんでいる。1981年(昭和56)11月、当時としては世界の国際レースのうち3番目の高額賞金を懸けて、初の国際招待レース「第1回ジャパンカップ」が東京競馬場で行われた。それ以降この催しは毎年11月に行われ、1984年に日本馬として初めてカツラギエースが優勝し、さらに1998年には日本馬が1、2、3着を占めた。なお、1984年から重賞(とくに賞金の高い競走)にグレード制が設けられ、GⅠからGⅢまでに格づけされるようになった。GⅠレースは前記の大レースのほかに14レースある。

 第1回日本ダービーは1932年(昭和7)4月24日、目黒競馬場で行われ、函館孫作(はこだてまごさく)騎乗の宮内省御料牧場産ワカタカ(父トウルヌソルはイギリス産の輸入種牡馬)が優勝した。第3回から現在の東京競馬場に移った。ダービーの出走登録は1、2歳時に各1回、3歳時に2回の計4回で、外国産馬は出走資格がなかったが、2001年(平成13)より頭数制限(2頭)つきで出走が可能となり、2009年には7頭以内の出走が可能となっている。皐月賞、ダービー、菊花賞の3レースを制覇した馬を三冠馬とよぶが、日本では1941年のセントライト、1964年のシンザン、1983年のミスターシービー、1984年のシンボリルドルフ、1994年ナリタブライアン、2005年ディープインパクトの6頭のみである。200年の歴史を誇るイギリスでも、2000ギニー、ダービー、セントレジャーの三大レースの優勝を独占しトリプルクラウン・ホースの栄に輝いたのは15頭である。天皇賞は、イギリスの王室競馬場ロイヤル・アスコットで行われるゴールド・カップにあたる。有馬記念は、1956年に日本中央競馬会2代目理事長有馬頼寧(ありまよりやす)が中山グランプリの名称で創設したもので、翌年現在名に改称された。出走馬がファン投票を中心に選定される方法が歓迎され、ダービーと肩を並べるメーンレースになっている。このほか多くの重賞レース(ジャパンカップダートなど)がシーズンごとに組まれている。

 障害競走のグランプリは、中山競馬場で行われる中山グランドジャンプと中山大障害である。距離はそれぞれ4250メートル、4100メートルで行われ、高さ1メートル60、幅2メートル05の大竹柵(ちくさく)、高さ1メートル60、幅2メートル40の大いけ垣を含む計11回の障害飛越、さらにバンケット(谷)の上り下りが6回あり、スリルとバラエティーに富み、ファンを楽しませている。障害競走は落馬などで故障の危険が多く、障害レースへの出走を嫌う傾向が強いので、賞金を高くするなどの優遇策がとられている。また1999年(平成11)より障害競走にもグレード制が導入され、J・GⅠ、J・GⅡ、J・GⅢのレースが設定されている。ヨーロッパでは障害競走が盛んで、障害競走専門の競馬場もある。なかでもイギリス・エイントリー競馬場のグランドナショナル障害レースが有名である。広大な馬場を2周して4マイル4ハロン(約7200メートル)の距離を走り、30回障害を飛越する大規模なものである。

 平地競走、障害競走ともウッド式スターティングゲートを改良したJSS30型発馬機からスタートする。ゴールには一定のゴールポストがあり、入線順位は決勝審判員により決定されるが、肉眼による判断のむずかしい場合には、写真を参考にして判定する。この着順判定の写真は山口式フォトチャートphoto chart(着順判定写真)を使用する。この方式は1950年4月から採用されたが、目盛りによって、着差とレース所要時間が正確にわかる仕組みになっている。各コーナーには走路監視員とパトロールフィルムの撮影者がいて、レース中の不正騎乗、反則行為を監視している。

 賞金はレースの価値あるいは格を示す重要な要素の一つで、下級条件レースより上級条件レース、一般レースより特別レース、特別レースより重賞レースのほうが格が高く、賞金額も多くなる。ヨーロッパ、アメリカなど競馬先進国の賞金は、馬主たちが支払うレースの登録料を賞金に加算するステークスが主となるが、日本は法律によって登録料の最高額が低く抑えられているため(地方競馬は登録料制度を認められていない)、ステークスにあたる付加賞は欧米に比べてきわめて少ない。本賞金は主催者(日本中央競馬会)の支出による。1959年(昭和34)日本中央競馬会と中央競馬馬主協会連合会との間で「馬券売上額の6%を賞金にあてる」との申合せが交わされている。その後、馬券の場外発売制度を敷いたことから売上高の上昇は著しく、したがって賞金額も欧米をしのぐまでになった。このため、競走馬の購買価格が狂騰するなど種々の問題が生じたので、監督官庁の農林省(現農林水産省)は、大臣の私的諮問機関「競馬懇談会」に改善策を図り、競馬改善案を1974年6月に発表した。これにより、1975年度からは、従来の6%の枠を外し、中央競馬会の立案による年度予算で決定されることになった。

[大島輝久・日本中央競馬会]

馬券

勝馬投票券のことを一般に馬券という。馬券は1908年(明治41)に禁止されるまでは1枚2円と5円の2種であったが、1923年(大正12)に馬券が復活してからは、1枚5~20円、1人1競走につき1枚限り、配当は最高10倍以内に制限された。レースが大穴になり10倍配当をしたあとの余剰金は、特別配当金として外れ馬券の持ち主に還元された。第二次世界大戦後は1枚10円(10枚分100円)とし、購買枚数には制限なく、配当は無制限となった。中央競馬ではかつて200円券、500円券、1000円券があったが、のちには10万円まで買えるユニット馬券(複合馬券)となり、現在はマーク式馬券(マークシート方式で購入馬を申し込む)である。

 勝馬投票券は、単勝式、複勝式、連勝単式、連勝複式の4種類である。単勝式は1着馬、複勝式は出走馬が7頭までは1、2着馬、8頭以上は3着までの的中馬券に配当がつく。連勝単式は着順どおりに連式で的中させる馬券で、1、2着馬を的中させる馬単、1、2、3着馬を的中させる3連単の2種類がある。連勝複式は組合せを連式で的中させる馬券で、枠連、馬連、ワイド、3連複の4種類がある。

 勝馬投票券の発売は開催競馬場内の窓口ほか、場外発売所(愛称ウインズ)も設けられている。場外馬券は1948年(昭和23)12月、東京・銀座の発売所で初めて売られた。その後逐次増設され、中央競馬では2009年(平成21)現在、北海道では静内(しずない)(新ひだか町)、札幌、釧路(くしろ)、室蘭(むろらん)の4か所、東北では津軽(田舎館(いなかだて)村)、横手、種市(たねいち)(洋野(ひろの)町)、新白河(西郷(にしごう)村)の4か所、関東地区では銀座、新宿、後楽園、渋谷、錦糸町、浅草、新橋、汐留(しおどめ)、銀座通り、横浜、新横浜、伊勢佐木(いせざき)、石和(いさわ)、立川、田無(たなし)、高崎の16か所、関西地区では梅田、難波(なんば)、道頓堀(どうとんぼり)、京都、神戸、姫路、名古屋、広島、高松、米子(よなご)、小郡(おごおり)、博多(はかた)、八幡(やはた)、佐世保(させぼ)の14か所、全国38か所に場外発売所が設けられている。このほか、競馬を開催していない競馬場の窓口でも発売している。また日本中央競馬会以外の地方競馬場でも、盛岡、水沢、佐賀、荒尾(あらお)で発売を行っている。1974年(昭和49)からは電話投票制度が始められ、ARS(音声応答)方式で勝馬投票を行うことができる。さらに1991年(平成3)からはパソコンまたは携帯電話などを使って電話回線で日本中央競馬会のコンピュータに接続し、勝馬投票を行うA‐PAT方式も行われている。電話投票の普及により、2008年には売上げ総額の約50%が電話投票で占められている。

 中央競馬会の2008年の馬券総売上高は2兆7563億円で、いまや国民のレジャーとして定着している。

[大島輝久・日本中央競馬会]

名競走馬

中央競馬で、馬名を冠した重賞レースは、「セントライト記念」「トキノミノル記念」「シンザン記念」の三つがある。セントライトは1941年(昭和16)に初の三冠馬となった。トキノミノルは10戦全勝、1951年第18回ダービー優勝の17日後に破傷風のため死亡したが、「まぼろしの名馬」とうたわれている。シンザンは1964年の三冠馬、翌年には天皇賞と有馬記念をも制し、「五冠馬」の新語が生まれた。

 このほか、ダービー、オークス、菊花賞を制覇し11戦全勝の名牝クリフジ、第1回有馬記念優勝のメイヂヒカリ、アメリカのワシントン・バースデー・ハンデで名馬ラウンドテーブルを破って優勝したハクチカラ、史上初めて無敗で三冠を制したシンボリルドルフなどが日本の代表的名馬とされる。また、ハイセイコーやテンポイント、ディープインパクトなどは、競馬を知らない女性や子供の間でも多くの人気を集めた。

 日本中央競馬会では、名馬の功績をたたえるため、顕彰馬(競馬の殿堂)を選出し、競馬博物館のメモリアルホールに展示している。2009年(平成21)3月現在、クモハタ、セントライト、クリフジ、トキツカゼ、トサミドリ、トキノミノル、ハクチカラ、セイユウ、シンザン、グランドマーチス、ハイセイコー、トウショウボーイ、ミスターシービー、シンボリルドルフ、メジロラモーヌ、コダマ、タケシバオー、スピードシンボリ、テンポイント、マルゼンスキー、メイヂヒカリ、オグリキャップ、メジロマックイーン、トウカイテイオー、ナリタブライアン、タイキシャトル、テイエムオペラオー、ディープインパクトの28頭が選ばれている。

[大島輝久・日本中央競馬会]

地方競馬

競馬法(昭和23年法律158号)によると、日本中央競馬会のほかに、地方自治体(都道府県など)の競馬開催権も認めている。都道府県または指定市町村が行う競馬を一般に地方競馬という。地方競馬はいわゆる「草競馬」で、1910年(明治43)産牛馬組合が始めた競馬を発祥としている。1925年(大正14)に産牛馬組合が廃止されて畜産組合がこれにかわり、1927年(昭和2)からは農林省と内務省の省令による地方競馬規程により行われた。第二次世界大戦中は軍用保護馬鍛練中央会に移り、戦後の一時期の混迷状態を経て、1946年(昭和21)都道府県別の馬匹組合連合会の経営するところとなり、2年間行われた。1948年から現在の公営競馬の形態を整えた。

 2008年度(平成20)には、北海道(札幌、帯広(おびひろ)、門別(もんべつ))、東北(盛岡、水沢)、南関東(浦和、船橋、大井、川崎)、東海・北陸(金沢、笠松(かさまつ)、名古屋、中京)、近畿(園田、姫路)、中国・四国(福山、高知)、九州(佐賀、荒尾)の7ブロックで、総計1481日開催され、馬券の総売上高は3794億円であった。このうち帯広競馬場では挽曳(ばんえい)競馬も開催している。札幌、中京の各公営競馬は、中央競馬会の競馬場を借用して開催している。公営競馬のなかで、賞金、売上高、入場人員などの点で最大とされるのは東京の大井競馬場である。また、大井、川崎、門別、帯広、高知競馬場ではナイター競馬が行われている。

[大島輝久・日本中央競馬会]

世界の競馬と国際レース

世界の近代競馬は、イギリス型とアメリカ型の二つに大別することができる。イギリスではおもに芝コースでレースが行われる。起伏に富み、草深いコースで、速いタイムは出ないが持久力を競うパワー重視型で、強い馬に有利な馬齢重量戦が多い。一方、アメリカは平坦(へいたん)なダートコースがほとんどで、スピード重視型といえる。ハイペースのレースを乗り切ることによって持久力をつけ、また、レースの興趣を盛り上げるためにハンディキャップ競走も多い。フランス、ドイツなどのヨーロッパ大陸諸国やオーストラリアはおおむねイギリス型で、カナダなどはアメリカ型に近い。ロシアや、名馬キンツェムを生み出したハンガリーなどの東欧、それに北欧では、普通の競馬のほかに繋駕(けいが)速歩競走が盛んである。そのほかに、性質や形態は大きく異なるが、モンゴルやアフガニスタンなどの民族的な競馬も無視できない。

 競馬の国際交流は19世紀後半から盛んになったが、第一次世界大戦直後の1920年にフランスで創設された凱旋門(がいせんもん)賞の成功は、この気運にさらに拍車をかけた。当時の世界最高賞金を懸け、南半球も含めた世界中の一流馬が集まる凱旋門賞に出走することは、出走した馬の格を高めるばかりでなく、出走馬を送り出した国の競馬熱をも高めた。1999年(平成11)には日本馬エルコンドルパサーが2着になっている。第二次世界大戦後、競走馬の空輸が容易になると、凱旋門賞に倣った国際レースが次々と生まれた。代表的なものをに示す。このほかにもイタリアのミラノ大賞典やドイツのオイロパ賞などが国際レースとして著名である。日本のジャパンカップも国際的な声価を高めている。ますます盛んになるこの国際交流のなかから、調教をはじめとする技術の相互革新が生まれ、淘汰(とうた)され勝ち抜いた馬の血が後世に伝えられていくことになる。

[大島輝久・日本中央競馬会]

『佐藤正人著『わたしの競馬研究ノート』全10巻(1968~82・日本中央競馬会)』『原田俊治著『世界の名馬』(1970・サラブレッド血統センター)』『白井透編『日本の名馬』(1971・サラブレッド血統センター)』『H・H・イーゼンベルト他著、佐藤正人訳『馬――その栄光の歴史』(1973・みんと)』『日本中央競馬会編『競馬百科』(1976・みんと)』『白井透著『サラブレッド血統大系』(1981・サラブレッド血統センター)』『E・S・ヒューイット著、佐藤正人訳『名馬の生産』(1985・サラブレッド血統センター)』『山野浩一著『伝説の名馬』(1997・中央競馬ピーアールセンター)』『野村晋一著『サラブレッド』(新潮選書)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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