日本大百科全書(ニッポニカ) 「競技場」の意味・わかりやすい解説
競技場
きょうぎじょう
一般には総合的なスポーツが行われる観覧席のついた陸上競技場(スタジアム)を意味するが、広い意味ではスポーツ全般の競技を行う施設の総称をいう。そのため競技場の種類については、スポーツ競技の数と同じだけの種類があることになる。たとえば、2000年のオリンピック・シドニー大会では28のスポーツ競技が行われたが、陸上競技や野球、水泳からテコンドーまで、すべての種目に専用の競技場が用意された。これらの競技場は、国際競技連盟(IF)のテクニカル・ディレクターが厳密な審査を行った国際公認の施設である。そのなかには、陸上競技場や屋内プールのように恒久的な施設もあれば、ウエイトリフティングやフェンシングのように他の屋内施設を転用したもの、トライアスロンやビーチバレーのように港湾や道路といった都市インフラ、あるいは自然海岸や仮設スタンドを活用したものもある。
[原田宗彦]
歴史
競技場と競技スポーツの歴史は古く、お互いを切り離して語ることはできない。古代ギリシアで生まれた競技スポーツは、土着の葬送競技会や祭典競技会として発達し、やがて宗教的色彩の濃い古代オリンピックとしてイベント化していった。オリンピアの競技会が始まったのは紀元前776年であるが、最初は短距離走だけの素朴な大会であった。当時は宿舎となる選手村もなく、参加選手は野宿を強いられたが、その後大会が大きくなり、競技種目が増えるにつれ、それぞれの都市国家から貴族や政治家が選手を伴って参加するようになり、大会会場の草原には巨大なテント都市が出現するようになった。
ペロポネソス半島の西に位置するオリンピアには、当時使われた競技場の跡が残っている。競技場のトラックは長さが191.27メートルで、現在の400メートルトラックに比べるとずいぶん細長い。「スタディオンstadion」は、191.27メートルを1スタディオンとする長さの単位であり、現在、競技場を意味する「スタジアムstadium」の語源となっている。約3万~4万人の観客が入場できたというが、椅子(いす)や席があったわけではなく、土の上に座って男性のみが観戦したといわれている。その後、1200年間も続いた古代オリンピックの祭典は、ゼウス神の崇拝を嫌うキリスト教徒の東ローマ帝国皇帝テオドシウスによって、394年に廃止された。
ギリシア文明が崩壊し、次の地中海世界の覇者となったローマ人は、スポーツをより重視し、民衆が喜ぶ大衆娯楽として完成させるとともに、それを社会統制の手段として用いた。いまもローマに残る古代遺跡のなかで、ひときわ巨大で注目を集めるコロセウムColosseumは、5万人の観衆を集めた高さ50メートル、長径188メートル、短径156メートルの楕円(だえん)形競技場であり、世界遺産(世界文化遺産)に指定されている。コロセウムの地下には剣闘士の控え室や、彼らと戦ったライオン、クマ、野牛、見世物にされたゾウやキリンの檻(おり)があり、エレベーターのような仕組みによって地上に出る通路まで持ち上げられた。また、水上演技を行うために楕円形の「アレナ」に水を注ぎ排水するパイプなどが縦横に配置されていたという。さらに当時の文献によれば、観客を暑さから守るために帆に使うじょうぶな布で屋根をかけたとか、皇帝ドミティアヌスが灯火によってコロセウムでナイターを挙行したとも伝えられている。
その後、戦車競走で有名なキルクス・マクシムスCircus Maximusやキルクス・フラミニウスCircus Flaminiusをはじめ、三つの競技場がローマ近郊に建設された。そのなかでもキルクス・マクシムスは、26万人もの観衆を収容できたといわれ、長さ約660メートル、幅約200メートルの巨大競技場であった。世界最大のスタジアムといわれるブラジルのリオ・デ・ジャネイロにあるマラカナン・スタジアムでさえ20万人収容(現在は老朽化のため収容人数は10万人に制限されている)であり、それ以上の観客を収容したキルクス・マクシムスは、記録に残る史上最大の競技場ということができる。そこでは競技フィールドである「アレナ」の中央に築かれた「スピナ」という装飾品のついた柵(さく)の周りを、四頭立ての戦車で7周回るレースが行われた。
スポーツの暗黒時代であった中世を経て近代になると、競技スポーツのルールが統一され、大学間の対抗戦や、他チームとの交流試合といったスポーツの制度化が進んだ。1896年にはフランスの貴族クーベルタンの尽力によってオリンピックが復活し、本格的な競技場の整備が行われるようになった。第1回近代オリンピック・アテネ大会は、アテネの古代競技場跡に建てられた大理石造のスタジアム(5万人収容)における、国王ゲオルグ1世の宣言で始まり、ギリシアの羊飼いスピリドン・ルイスのマラソン優勝で幕を閉じた。
継続的な開催を熱望したギリシアからフランスへ、なかば強制的に場所を移動して行われた第2回パリ大会(1900)は、資金集めにも苦労し、万国博覧会の付属競技会としての位置づけでしかなかった。セーヌ川での水泳競技、白線を引いただけの草原でのハンマー投げ、草地での綱引きなど、いちおう競技場らしいものが整備されたが、現在では想像もつかない粗末な大会であったし、この時点で、競技場に対する国際規格や公認記録の概念はなかった。
第4回ロンドン大会(1908)になって、ようやく近代オリンピックの原型が生まれた。大規模スポーツ施設(ホワイトシティー・スタジアム)が建設されたほか、各国に対する参加要請状、国旗を掲げての入場行進、プールを使った水泳競技などが行われた。ただ、プールは100メートル×15メートルという巨大な人工池のようなもので、競技種目も少なかった。この大会より、参加形式が個人から国へと変わり、国際主義から国家主義へとオリンピックの性格が変化していくことになる。
1912年の第5回ストックホルム大会になると、各種目ごとの競技施設が整備され、式典とメインの競技会場としての役割をもつ競技スタジアムがつくられるとともに、陸上競技において電気時計と写真判定が導入された。なお、この大会で嘉納治五郎(かのうじごろう)を団長とする5名の日本選手団がアジアから初参加した。
その後のオリンピックの発展は、競技場の発展の歴史でもあった。第二次世界大戦前の大会では、1932年のロサンゼルス大会と1936年のベルリン大会において、当時としては最大規模の10万人収容のスタジアムが建設されたほか、戦後もオリンピックが開催されるごとに、一線級の国際規格の競技場が世界各国に建設され、国際的なスポーツ振興に大いに役だった。現在は、オリンピック後の施設活用が大きな課題とされ、イベントの後には撤去可能な仮設スタンドや、競技施設とレジャー施設が併用された屋内プールといった施設づくりが行われている。
[原田宗彦]
日本の競技場
日本においても、スポーツイベントの開催と競技場の建設は密接に関係している。1924年(大正13)に内務省によって開かれた明治神宮体育大会は、第1回大会(1924)から第14回大会(1943)まで、第二次世界大戦前のスポーツ史の中核をなすスポーツイベントであった。1924年にメインスタジアムとして建設された明治神宮外苑(がいえん)競技場(現在の国立競技場)は、スタンドと芝生の土手をあわせて3万5000人の収容能力があり、オリンピック・ストックホルム大会(1912)のメインスタジアムを模してつくられた日本初の本格的な競技場であった。
第二次世界大戦後、明治神宮体育大会を模して始められた国民体育大会(国体)は、毎年開かれる都道府県持ち回りの大会であり、都道府県対抗、天皇杯・皇后杯といった諸制度が確立するにつれ、自治体発展の起爆剤としての役割を担わされた。国体の功績は、大会後にスポーツ振興の拠点として活用されることになる一級の競技施設を全国の自治体に残したことである。ちなみに、国体施設の建設にかかる費用の半額は国の補助金でまかなわれる。そのため、自治体にとって国体は、老朽化した施設の改築や整備を行うには絶好の機会である。
[原田宗彦]
サッカーと競技場
スポーツと競技施設の進化の過程を知るには、イギリスで発展したフットボール(サッカー)の歴史が参考になる。イギリスのフットボールにはもともとルールがなく、空間的な制限のない市街地、空き地、牧草地等で行われていたが、ピッチ(芝生のフィールド)として囲い込まれ、選手と観客が分離されるようになった。それを可能にしたのが1882年に導入された、選手の領域を観客から区別する「タッチ・ライン」のルール化であり、この瞬間から遊びやカーニバル的要素の強かった荒々しいフットボールは、真剣で洗練されたスポーツへと姿を変えたのである。ラインで区切られたサッカー場はやがて観客席に囲まれた閉鎖空間となり、バンク(土手)やテラス(立見席)、スタンドといった見る場所の分割や、快適性(屋根やシートの有無)による差別化が行われるようになった。
しかしイギリスのサッカー場では、1972年にスコットランドのグラスゴー・レンジャーズが本拠地とするサッカー場で起きた圧死事故(66人死亡)、老朽化したブラッドフォード・サッカー場で起きた1986年の火災事故(56人死亡)、そしてFAカップの準決勝に押し寄せたファンの無秩序な行動によって95人の観客が圧死した「ヒルズボローの悲劇」(1989)などの惨劇が重なった。その結果、老朽化した競技場の改築を勧告する「テイラーレポート」が出され、サッカー場の安全基準の向上に大いに役だった。
現在のサッカー場は、メディア時代への対応と、コンサート等のサッカー以外のイベント利用に対応するため、大型化、多目的化、ハイテク化が進んでいる。スタンドには大型映像装置が設置され、ピッチには企業の看板広告が整然と並べられている一方、フーリガン(サッカーの試合場に現れて暴力事件を引き起こす暴徒のこと)対策として何台もの監視カメラが備えられている。これまでサッカー後進地域であった東アジアにも、2002年ワールドカップ韓国/日本大会の開催を契機として、国際サッカー連盟(FIFA(フィファ))が公認した最新のスタジアムが、韓国と日本あわせて20施設完成した。
[原田宗彦]
アメリカ大リーグと競技場
近年、競技場はオリンピックやサッカー・ワールドカップのようなメガ・スポーツイベント、プロスポーツの発展に伴って急速に進化を遂げている。たとえばプロスポーツが盛んなアメリカでは、NBA(バスケットボール)、NFL(アメリカンフットボール)、NHL(アイスホッケー)、MLB(大リーグ、野球)といった四大スポーツだけで120のチームがあり、その大部分がスタジアムやアリーナ(室内競技場)にフランチャイズ(本拠地)を置いている。
四大プロスポーツのなかでも、とくに大リーグはスタジアムの進化が顕著である。大リーグで最初に屋根で完全に覆うスタジアムが出現したのは1965年のことである。夏の暑さと蚊の襲来を防ぐため、世界初のエアコン付きドーム型球場として登場した「アストロドーム」(テキサス州ヒューストン)がそれだが、宇宙時代のシンボルとして華々しく登場した割にははやばやと役割を終え、2000年には老朽化を理由に解体されてしまった。ヒューストンでは、新しく開閉式の屋根のついた「エンロン・フィールド(現ミニッツメイド・パーク)」が2000年に完成し、アストロドームにかわるヒューストン・アストロズの新たな本拠地として使われている。アメリカでは、ノスタルジックな外観に開閉式の屋根と天然芝を備えた「新古典主義」のスタジアムが主流となっており、密閉式のドーム球場や人工芝のグランドは時代遅れになりつつある。
アメリカで新しいスタジアムの建設が盛んになったのは、スタジアムの名称を企業に期限を定めて販売するネーミングライツ(命名権)による資金調達の方法が定着したためである。アメリカでは多くの施設に企業名が冠されているが、エンロンフィールドのように、命名権を買った企業(エンロン社)が契約を終了する前に倒産してしまうケースが生じることもある。ネーミングライツの手法はすでにヨーロッパに伝播(でんぱ)している。日本では2001年(平成13)に東京スタジアム(東京都調布市)が導入を決定、食品会社の味の素(あじのもと)が権利を購入し、2003年「味の素スタジアム」としたのが最初の事例である。
ギリシア・ローマ時代に源を発する競技場は、これからもスポーツのグローバル化とメディア化を伴って、さまざまな最新設備を付加しながら進化を続けていくであろう。
[原田宗彦]