竜野藩(読み)たつのはん

改訂新版 世界大百科事典 「竜野藩」の意味・わかりやすい解説

竜野藩 (たつのはん)

播磨国(兵庫県)揖西郡竜野を城地とした藩。初期は譜代,中期以降外様中藩。中世の竜野赤松氏が1577年(天正5)織田信長配下の羽柴豊臣秀吉に戦わずして開城したあと,81年蜂須賀正勝5万3000石が初の近世大名として入封した。その後豊臣時代の城主は85年福島正則5万石,88年木下勝俊6万4000石,94年(文禄3)小出吉政2万石と移った。江戸時代の竜野藩は1617年(元和3)本多政朝5万石の入封に始まる。以後,26年(寛永3)小笠原長次6万石,33年岡部宣勝5万石,37年京極高和6万石が入った。58年(万治1)以降の幕領時代ののち,72年(寛文12)入封の脇坂氏5万3000石で明治維新まで定着した。近世後期に財政が窮乏し,藩は領内産の塩・藍玉の使用強制や醬油仕法等を試みたが,いずれも領民の抵抗で撤回を余儀なくされた。徴租法強化に反対する1848年(嘉永1)の強訴,翌年の百姓一揆は藩主安宅(やすおり)が寺社奉行のときのことで,安宅は外様中藩ながら所司代老中を務めた。
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百科事典マイペディア 「竜野藩」の意味・わかりやすい解説

竜野藩【たつのはん】

兵庫県たつの市龍野(江戸時代は播磨国揖西郡に所属)を城地とした藩。1617年譜代本多政朝が5万石で入封し揖西(いっさい)・揖東郡を領した。1626年小笠原長次(飾西郡を加えて6万石),1633年岡部宣勝(揖西・揖東5万石),1637年外様の京極高和(飾西郡を加えて6万石)が入封。1658年から幕府領となり城は一旦破却。1672年脇坂安政が5万3000石(揖西・揖東・美嚢郡)で入封して以降明治維新まで同氏で変わらず1871年廃藩。1681年美嚢(みのう)郡から飾西(しきさい)郡に領地替え,1747年美作国真島(ましま)郡が加わる。藩校は敬楽(けいごう)館。領内支配は郡(こおり)・町・郷の各奉行。江戸後期には国産品の第一である醤油に対する統制(醤油仕法)などで財政窮乏の打開を試みたが,領民の抵抗にあって撤回。財政は窮乏の度を強めたが,取立て強化も1848年の強訴(ごうそ),翌年の一揆で不成功に終わった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竜野藩」の意味・わかりやすい解説

竜野藩
たつのはん

江戸時代,播磨国 (兵庫県) 竜野地方を領有した藩。元和3 (1617) 年本多政朝が上総大多喜藩から5万石で入封したのに始り,小笠原長次が寛永3 (26) ~9年6万石,岡部宣勝 (のぶかつ) が同 10~13年5万石,京極高和が同 14~万治1 (58) 年6万石と続き,以後しばらく藩がおかれなかったが,寛文 12 (72) 年脇坂安政が信濃 (長野県) 飯田より5万 3000石で入封,以後代々継がれて廃藩置県にいたる。脇坂氏は外様,江戸城帝鑑間詰。

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世界大百科事典(旧版)内の竜野藩の言及

【播磨国】より

…姫路藩も木綿をはじめとする諸国産を対象として同年専売制を始めた。竜野藩は29年(文政12),明石藩は38年(天保9)に木綿の専売制を始めている。上野館林藩も30年飛地領の三木の金物について専売制を強行したが,これはすぐに中止となった。…

※「竜野藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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