竜安寺(読み)リョウアンジ

デジタル大辞泉 「竜安寺」の意味・読み・例文・類語

りょうあん‐じ【竜安寺】

京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は、大雲山。藤原実能の別荘近くにあった徳大寺の地に細川勝元が寺を建て、宝徳2年(1450)義天玄承を招き、その師日峰宗舜を開山としたのが始まり。応仁の乱焼失、徳芳禅傑が再興。現在の方丈塔頭たっちゅう西源院の建物を移築したもの。方丈庭園は相阿弥作と伝えられ、石と砂だけで構成された枯れ山水虎の子渡しの庭とよばれて有名。平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。りゅうあんじ。

りゅうあん‐じ【竜安寺】

りょうあんじ(竜安寺)

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「竜安寺」の解説

竜安寺
りゆうあんじ

[現在地名]八代町米倉

米倉よねくら集落南方の丘陵中腹に位置する。山号は金富山。曹洞宗で、もと竜華りゆうげ(現中道町)の末。本尊釈迦如来。治安元年(一〇二一)真言宗の僧弘慧の開創になり、永治山真福寺と号したと伝える。文治年間(一一八五―九〇)には、中尾昌福により南東方一〇町余の山中から現在地へ移されたという。大永年間(一五二一―二八)石心宗玖が入寺するに及んで改宗、山寺号ともに改めた(甲斐国志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「竜安寺」の意味・わかりやすい解説

竜安寺 (りょうあんじ)

〈りゅうあんじ〉ともいう。京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺。大雲山と号する。当寺の場所にはもと左大臣藤原実能が建立した徳大寺があったが,これを室町幕府の管領(かんれい)細川勝元が譲り受け,1450年(宝徳2)妙心寺の義天玄詔を招いて禅院を開創した。玄詔は師の日峰宗舜を開山にして,みずからは2世となった。これが当寺の起源である。応仁の乱で回禄したが,勝元の子の管領細川政元が徳芳禅傑を招いて復興,禅傑は中興の祖といわれる。細川家の保護厚く,盛時には塔頭(たつちゆう)21院(一説に16院)を数えた。近世の寺領は72石。だが1797年(寛政9)炎上し,そののち塔頭西源(さいげん)院方丈を移建して当寺方丈(重要文化財)とするなど復興につとめ寺観も旧に復したが,現存の塔頭は境内鏡容池の北岸にある大珠院,西源院,霊光院の3院のみである。なお寺内に細川勝元夫妻,同政元・同氏綱など歴代管領細川家の墓があり,また大珠院の前の池中に真田幸村の墓と伝える石塔がある。細川氏関係の古文書も伝蔵するが,紙本墨書《太平記》12冊(重要文化財)は,徳川光圀の加筆もあって有名である。
執筆者:

方丈南側の前庭として,南と西を築地塀に囲まれた約250m2の平地に,15個の石を東より5,2,3,2,3個の5群に配し,白砂を敷いただけの簡潔な構成は,すぐれた意匠との評価が高く特別名勝・史跡に指定され,世界的にも著名な庭園の一つである。1645年(正保2)に庭を〈虎の子渡し〉とした記録があるが,五智五仏や十六羅漢の遊行のさまを表すといわれたり,あるいは中国の五岳や禅の五山になぞらえたり,大海に浮かぶ島々,激流中の岩頭,雲海の上にそびえる高峰などと,見る人の自由な解釈を可能にしている。作庭年代も室町説と江戸説に分かれ,したがって作者にも多様な人物があげられ,そのなぞはいまだに解けない。1797年の方丈焼失後,現方丈の移建に伴って,東の2群の庭石を若干(東へ1~1.5m)移動させたと考えられるふしもある(国立公文書館所蔵《竜安寺方丈前庭之図》による)。久しく桟瓦葺き(さんがわらぶき)であった築地塀の屋根も,諸資料に基づいて,1978年3月,杮葺き(こけらぶき)に改められた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「竜安寺」の意味・わかりやすい解説

竜安寺【りょうあんじ】

京都市右京区竜安寺御陵ノ下町にある臨済宗妙心寺派の寺。本尊釈迦如来。細川勝元が1450年創立,大寺であったが応仁の乱で焼失,さらに1797年失火により焼失,のち西源院から方丈を移築。方丈前の庭は境内の樹林を借景とし,白砂の上に15個の石を配置した典型的な枯山水で,〈虎の子渡しの庭〉と呼ばれ,特別名勝に指定されている。歴代管領細川家の墓がある。1994年世界文化遺産に登録される。
→関連項目右京[区]京都[市]古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市)

竜安寺【りゅうあんじ】

竜安寺(りょうあんじ)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「竜安寺」の解説

竜安寺
りょうあんじ

京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺
1450年細川勝元が創建。以後細川氏の保護をうけ,同氏歴代の墓がある。ここの方丈前庭の石庭は,枯山水庭園の代表的なもので,長方形の平地へ白砂をしき,ほうき目で波紋の形をつくり,5群15個の石を巧みに配し,俗に「虎の子渡し」といわれる。作者は不明。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の竜安寺の言及

【竜安寺】より

…作庭年代も室町説と江戸説に分かれ,したがって作者にも多様な人物があげられ,そのなぞはいまだに解けない。1797年の方丈焼失後,現方丈の移建に伴って,東の2群の庭石を若干(東へ1~1.5m)移動させたと考えられるふしもある(国立公文書館所蔵《竜安寺方丈前庭之図》による)。久しく桟瓦葺き(さんがわらぶき)であった築地塀の屋根も,諸資料に基づいて,1978年3月,柿葺き(こけらぶき)に改められた。…

※「竜安寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android