立花家橘之助(読み)たちばなやきつのすけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「立花家橘之助」の意味・わかりやすい解説

立花家橘之助
たちばなやきつのすけ
(1868―1935)

寄席(よせ)の音曲師(おんぎょくし)、浮世節家元本名石田みよ。東京生まれ。三遊亭円橘(えんきつ)の弟子になり、6歳から寄席へ出て清元(きよもと)、端唄(はうた)、俗曲を歌う。1882年(明治15)大阪へ下り、男装美音で人気を博した。85年に帰京後は、『大阪天満(てんま)』『京の四季』『とっちりとん』など「三都音曲語り分け」や「端唄浮世節」を看板に、人気者となって「女公方(おんなくぼう)」といわれた。1912年浮世節家元になる。昭和10年6月29日、台風による増水で京都・紙屋川濁流にのまれて没した。

倉田喜弘]

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改訂新版 世界大百科事典 「立花家橘之助」の意味・わかりやすい解説

立花家橘之助 (たちばなやきつのすけ)
生没年:1868-1935(明治1-昭和10)

寄席の音曲(おんぎよく)師。本名石田ミヨ。東京浅草に生まれる。6歳のとき,三遊亭円橘の弟子となって両国の立花家に出演。1881年大阪へ下り,美声と男装で大評判となる。85年に帰京後は,京大阪の歌をも合わせて〈三都音曲語り分け〉,あるいは〈端唄浮世節〉を演じ,三遊派の大看板として活躍した。1935年6月29日,台風による京都紙屋川の出水で死亡した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立花家橘之助」の意味・わかりやすい解説

立花家橘之助
たちばなやきつのすけ

[生]明治1(1868)
[没]1935.6.29. 京都
音曲師,寄席芸人。明治,大正期の代表的な女性芸人で,清元,長唄常磐津をよくし,三味線名手であった。音曲師として俗曲の集大成を志し,浮世節と名づけて独自の芸風を生み出し,芸力,人気ともに寄席演芸界に君臨した。8歳のときすでに落語三遊派の真打ちを許された。「女大名」のあだ名は有名。 1974年 11月,芸術座の東宝現代劇公演で『たぬき-浮世節立花家橘之助』 (榎本滋民作・演出) と題してその生涯が舞台化され,演じた山田五十鈴の代表作の一つとなった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「立花家橘之助」の解説

立花家橘之助 たちばなや-きつのすけ

1868-1935 明治-昭和時代前期の音曲師。
慶応4年7月27日生まれ。6歳のとき2代三遊亭円橘(えんきつ)の弟子となり,寄席で清元,端唄(はうた),俗曲をうたった。大阪などで美声と男装で評判となり,帰京後は「三都音曲語り分け」「端唄浮世節」などで人気を得,大正元年浮世節家元の認可をうけた。昭和10年6月29日死去。68歳。江戸出身。本名は石田みよ。

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世界大百科事典(旧版)内の立花家橘之助の言及

【浮世節】より

…江戸時代より流行歌(はやりうた)の別名として使われた。明治の中期から大正にかけ,寄席で人気のあった女芸人,立花家橘之助(たちばなやきつのすけ)が,1900年(明治33)に浮世節家元として公認され,一流派を立てた。橘之助は《大津絵》《とっちりとん》などの俗曲に,長唄,常磐津,清元節などを巧みに織り込み,陽気でおどけた歌詞と曲調に仕上げ,三味線の曲弾きを入れた《たぬき》といった曲で芸術性を高めた妙技をみせた。…

※「立花家橘之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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