立石寺(読み)りっしゃくじ

精選版 日本国語大辞典 「立石寺」の意味・読み・例文・類語

りっしゃく‐じ【立石寺】

山形市山寺にある天台宗の寺。山号は宝珠山貞観二年(八六〇)開創。開山は円仁。延暦寺別院。比叡山延暦寺根本中堂常灯明を分灯している。度々の兵火で荒廃したが、天文一二年(一五四三)円海が中興。山寺。阿所川院。りゅうしゃくじ。

りゅうしゃく‐じ リフシャク‥【立石寺】

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デジタル大辞泉 「立石寺」の意味・読み・例文・類語

りっしゃく‐じ【立石寺】

山形市山寺にある天台宗の寺。山号は、宝珠山。俗称、山寺。貞観2年(860)円仁の開創と伝える。比叡山延暦寺の法灯を根本中堂に分灯。芭蕉の「しづかさや岩にしみ入る蝉の声」の句碑がある。りゅうしゃくじ。

りゅうしゃく‐じ〔リフシヤク‐〕【立石寺】

りっしゃくじ(立石寺)

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日本歴史地名大系 「立石寺」の解説

立石寺
りつしやくじ

[現在地名]山形市山寺

宝珠ほうじゆ山の山腹にあり、山号宝珠山、天台宗で本尊薬師如来。古来当寺を中心とする一山を山寺やまでらと総称。奇岩怪石と清流に恵まれた岩山寺である。江戸時代は上野寛永寺末。最上三十三観音第二番札所。

〔開創〕

立石寺記録(立石寺文書、以下明記しない史料は同文書)によれば、開山は近江延暦寺三代座主慈覚大師円仁、諸院のうち安養あんよう院開山は心能、千手せんじゆ院・山王さんのう院の開山は実玄とする。また立石寺開祖を延暦寺四代座主安慧とも記している。円仁が天長六年(八二九)から九年にかけて東北巡錫をした折、山寺の地を相し、弟子の心能と実玄をとどめて寺院の開創に当たらせたのかもしれない。また承和一一年(八四四)から嘉祥二年(八四九)まで円仁弟子安慧が羽州講師となって出羽地方の天台教学の普及に尽力したが、この間立石寺開創に助力したことから開祖と仰がれたのであろう。馬形まがた阿所川院あそがわいんを本坊とし、宮崎みやざきの安養院や千手院・山王院などを建立し、寺号を常願じようがん寺と称して一山の体制を整備したのは承和末年と推定される。貞観二年(八六〇)常願寺の寺号を立石寺と改め、清和天皇より「立石倉印」の鋳印を下賜されたという。同年一二月三〇日の円仁置文写によれば、当寺の四至は東は国境、南は両子塚、西は川、北は六道辻をそれぞれ限り、寺領は三八〇町(砂金一千両・麻布三千段をもって買得)であった。天慶四年(八八〇)清和天皇の死に際し、同天皇を祀り根本中堂の傍らに建てられたという石造宝塔が現存する。

貞観六年に没した円仁の遺骨は立石寺に運ばれ、現在入定窟とよばれている岩窟に安置されたと伝えるが、入定窟は天養元年(一一四四)の如法経所碑の銘文により、当時すでに大師の納骨霊窟と信じられていたことが知られる。慈覚大師の遺骨が安置された頃から、霊窟を中心にして立石寺の寺容がしだいに整えられた。立石寺根本中堂木造薬師如来坐像銘に元久二年(一二〇五)中堂を修復し、本尊ほか日光・月光両菩薩像を造立したとある。中堂の法灯も延暦寺から移され、永正一八年(一五二一)の湯殿山大権現写(土屋文書)に「立石寺ニ山王廿一社」があったとみえ、比叡山にならって山王二十一社が勧請されていた。

立石寺
りつしやくじ

[現在地名]飯田市立石

立石たていし村の中央部に位置する。真言宗、千頭山と号す。天安元年(八五七)に京都の僧宥範阿闍梨が開基し、その後、鹿を九〇〇頭射たという弓馬の名手甲賀三郎兼家が大檀那となって隆盛を極めたという寺伝をもつ。本尊十一面観音立像(国指定重要美術品)はじめ、広目天・増長天・多聞天の諸像はいずれも藤原時代の造立であるところから、平安時代中期頃の草創と考えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「立石寺」の意味・わかりやすい解説

立石寺 (りっしゃくじ)

山形市にある天台宗の寺。山号は宝珠山。俗に山寺(やまでら)と称される。860年(貞観2)慈覚大師円仁の開山と伝え,東北屈指の慈覚大師信仰と庶民信仰の霊山である。慈覚大師入滅の地は比叡山とされるが,当寺でも山頂南面の絶崖にある岩窟が大師の入定(にゆうじよう)窟とされている。1144年(天養1)にはその霊窟上部に如法経所碑(重要文化財)が建てられた。その碑文では弥勒信仰に慈覚信仰が重ね合わされている。また日蓮の書状は〈御頸は立石寺にあり〉との鎌倉時代の風聞を伝えており,分骨埋葬説が有力である。今も霊窟に眠る頭部彫刻や遺骨の一部がそれとされる。霊窟周辺の岩窟から,納骨した木製五輪塔など鎌倉時代の遺品も発掘され,死者の霊のかえる山として,この風習は今なお歯骨や卒塔婆,後生車が納められ息づいている。江戸時代には朱印寺領1420石,衆徒18ヵ寺,坊跡12坊,末寺3ヵ寺,門徒2ヵ寺を抱える大寺であった。全山いたるところ風水食による岩穴や奇岩に満ち,松尾芭蕉も訪れた景勝地で,現在も根本中堂,三重小塔(ともに重要文化財)など多くの伽藍諸堂が点在する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「立石寺」の意味・わかりやすい解説

立石寺
りっしゃくじ

山形市山寺(やまでら)にある天台宗の寺。山号は宝珠山(ほうじゅさん)。山寺と通称される。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。芭蕉(ばしょう)が『おくのほそ道』に「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉(せみ)の声」を詠んだ寺として有名である。860年(貞観2)清和(せいわ)天皇勅願により比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の別院として慈覚大師円仁(えんにん)が創建した。延暦寺根本中堂の法燈(ほうとう)を分燈しており、叡山の法燈が織田信長の焼打ちによって消えたとき、立石寺から再建の燈火が移されている。室町末期に兵火により焼失したが、天文(てんぶん)年間(1532~55)最上義守(もがみよしもり)、一相坊円海らによって再建中興され、関東北の霊場として信仰の中心となった。寺伝によると、全盛期の江戸初期には2800石の朱印地を有し、僧房100寺、僧侶(そうりょ)300余人を有したという。35万坪(115ヘクタール)の宝珠山全山が境内で、史跡名勝、県立公園とされ、40余の堂塔が散在して深閑の趣(おもむき)ある寺容である。中堂(根本中堂)は1356年(正平11・延文1)山形城主斯波兼頼(しばかねより)が再建建立したもの、本尊の薬師如来坐像(ざぞう)は慈覚大師作と伝えられる。また、1144年(天養1)入阿大徳(にゅうあだいとく)と同法5人が『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』1部8巻を書写して慈覚大師入定窟(にゅうじょうくつ)の岩頭に納めた天養(てんよう)元年如法経所碑があり、以上いずれも国重要文化財に指定されている。

[中山清田]


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百科事典マイペディア 「立石寺」の意味・わかりやすい解説

立石寺【りっしゃくじ】

山寺とも。山形市北東部,宝珠山の中腹にある天台宗の寺。本尊薬師如来。860年円仁の創建で,比叡山根本中堂の常灯明(とうみょう)を分灯したという。たびたび兵火にあったが1543年再び根本中堂の灯を移し円海が中興,最上氏の外護や幕府の朱印を得て栄えた。芭蕉の〈閑さや岩にしみいる蝉の声〉の句で有名。本尊や根本中堂は重要文化財。
→関連項目蔵王国定公園山形[県]山寺

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「立石寺」の解説

立石寺
りっしゃくじ

山形市山寺(やまでら)にある天台宗の寺。宝珠山と号す。通称は山寺。寺伝によれば,860年(貞観2)円仁の創建。鎌倉時代には,幕府の支配をうけたらしく,当寺の院主・別当両職の任命権は幕府にあった。1520年(永正17)伊達氏の天童(てんどう)攻めの折,一山炎上。43年(天文12)円海が復興。江戸時代に寺領1420石。1689年(元禄2)芭蕉が当寺を訪れた。寺宝の木造薬師如来坐像・如法経所碑は,いずれも重文。国名勝・国史跡

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「立石寺」の意味・わかりやすい解説

立石寺
りっしゃくじ

山形市大字山寺にある天台宗の寺。宝珠山阿所川院と号し,山寺と通称され,「りゅうしゃくじ」ともいう。宝珠山の山腹に位置し,貞観2 (860) 年円仁の創立。兵火で焼失したものを天文 12 (1543) 年円海が中興し,江戸時代に大いに栄えた。明治以後やや衰えたが,なお根本中堂 (重要文化財) をはじめとする諸堂塔と広大な寺域を有し,東北地方における屈指の巨刹である。芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ寺として名高い。

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デジタル大辞泉プラス 「立石寺」の解説

立石寺(りっしゃくじ)

山形県山形市にある寺院。「りゅうしゃくじ」とも読む。天台宗。山号は宝珠山。860年開創と伝わる。華蔵院の三重小塔は国の重要文化財に指定。通称「山寺」。

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国指定史跡ガイド 「立石寺」の解説

りっしゃくじ【立石寺】


⇒山寺(やまでら)

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世界大百科事典(旧版)内の立石寺の言及

【納骨】より

…この寺は市中の寺院ではあるが,智光曼荼羅のために霊場化し,盛んに納骨がおこなわれて,竹筒型蔵骨器や羽釜型蔵骨器,柄杓型蔵骨器などが出ている。山形市郊外の山寺立石(りつしやく)寺は洞窟への納骨が盛んであったが,今は奥之院で納骨を受け付けている。【五来 重】。…

【磐司磐三郎】より

…磐次磐三郎とも書き万治(次)万三郎ともいう。仙台市西方奥羽山脈を越える二口峠に磐司巌(ばんじいわ)と呼ぶ巨岩が対立した場所があり,ここが磐司磐三郎の住処であったと伝え,また山形県立石(りつしやく)寺の山中を狩場としたともいう。この伝承は,もと次郎・三郎と呼ばれる2人の狩人があり,一方は山の神を援助してその礼に獲物を授けられ,他方はそれを断って山の幸を失ったという運勢の優劣を説明する神話の一類型であった。…

※「立石寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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