日本大百科全書(ニッポニカ) 「空気」の意味・わかりやすい解説
空気
くうき
air 英語
air フランス語
Luft ドイツ語
地球を包む大気の下層部分を構成している無色透明な気体をいう。大気は地上約1000キロメートルまで存在するといわれ、その最下部の対流圏(地上から約10~17キロメートル)、その上の成層圏(地上約48キロメートルまで)までは、いわゆる空気とよんで、地上から高くなるにつれて密度は減少していくが、その組成は変わらない。
空気は歴史的に生成されたもので、空気がなければ、地表は太陽の激しい光、熱、宇宙線、宇宙塵(じん)などに直接さらされることになり、また炭酸同化も呼吸も窒素固定も行われず、生物は存在することもできない。さらに空中を音が伝わらず、物が燃えることもなく、大気圧や風や雨も存在しない。
[中原勝儼]
性質
空気は混合気体で、主成分の酸素と窒素のほかに、少量の二酸化炭素およびアルゴンなどを含んでいる。そのほか水蒸気、二酸化硫黄(いおう)、一酸化炭素、アンモニア、二酸化窒素、オゾン、炭化水素などの気体、さらに塵埃(じんあい)、花粉、微生物、無機塩類などの微粉を含んでいるが、これらは時と所によって量が違う。最近は大量の化石燃料消費その他の影響で二酸化炭素の含有量が年々わずかずつ増大している。また大都市の空気中では自動車などの排出ガスその他によって窒素酸化物(いわゆるNOX)や硫黄酸化物(いわゆるSOX)の量が増大している。
空気の組成は地上のどこでもほとんど変わらないから、古くは化合物と考えられたこともある。加圧下、冷却すると、37.2気圧、零下140.7℃で液体となる。液体空気を気化させると、成分の沸点が違うため、各成分を分離することができる。
[中原勝儼]
重さを測る方法
乾燥空気1リットルは1.293グラム(0℃、1気圧)である。空気のおよその重さを測るには、栓をしたフラスコにゴム管をピンチコックで取り付け、真空ポンプで空気を抜き、その減じた重さを秤量(ひょうりょう)する。空気が入っているときと真空にしたときの重量の差がフラスコに入っていた空気の重量である。ついで水の中でコックを開いて、入る水の体積を測定する。これによってその体積の空気の重量がわかることになる。逆に、容器に空気入れなどで空気を押し込み、増した重さを測り、水中に倒立させたメスシリンダーに増量分の空気を導いて体積を知る方法もある。
単に重さのあることを知る程度ならば、水を少量入れたフラスコを温めて、水蒸気とともに大部分の空気を追い出して栓をし、その重さを測ったのち、栓を開いて空気を入れ、再度重さを測ることによって確認できる。
[中原勝儼]
空気の認識の変遷
古代
目で見ることのできない空気が物質であることは古くから認められていた。紀元前6世紀の古代ギリシアのアナクシメネスは「空気」を万物の根源とし、その希薄化と濃厚化によって火・水・土に変わると考え、エンペドクレスは「クレプシドラ(水汲(く)み用具)の実験」によって空気の物質性を証明した。前3世紀のストラトンは、中空の銅球を用いて空気の圧縮性と弾性を示し、空気が微小な分子とそれらの間の小さな空虚とからなることを主張した。ヘロンは、空気の熱膨張を利用した神殿の自動扉や蒸気タービンの玩具(がんぐ)を考案した。しかし古代社会では、これらが生産技術に応用されることはなかった。ローマ時代の医師ガレノスは、呼吸によって体内に入り、生命の維持と精神作用をつかさどる精気として「プネウマ」という概念を重視した。中国の思想においても「気」は重要な概念であったが、陰陽五行(いんようごぎょう)説を出ることなく、西洋におけるように物質として自然学の対象とはならなかった。
[内田正夫]
重さと弾性の認識
近代科学の生まれつつあった17世紀には、真空の存在の証明と関連して空気の諸性質が研究された。
トリチェリは、いわゆる「トリチェリの実験」において、ガラス管内の76センチメートルの水銀柱は大気の重さとのつり合いによって支えられている、と説明した(1643)。続いてパスカルが、種々の思考実験と論証によってこれを証明し、流体の平衡として一般化した。彼の指示で実施された「ピュイ・ド・ドーム山頂の実験」(1648年9月19日)は、最初の高所気圧測定であった(パスカルの実験)。一方、ゲーリケは1650年ごろ、空気ポンプを製作して真空状態をつくりだし、「マクデブルクの半球実験」をはじめ、大気圧の大きさを示すさまざまな実験を行った。また真空容器内での音・火・小動物などの挙動を調べ、音の伝播(でんぱ)、燃焼、動物の生存に空気が必要なことを証明した。ボイルはゲーリケの実験を追試して、さらに巧みな実験により、空気の圧力と体積との間の「ボイルの法則」をみいだした(1662)。空気の弾性流体としての本性が明瞭(めいりょう)に認識されたのである。
空気の熱膨張については、その体積が温度に比例することが、1787年シャルルによって発見された。その膨張率はゲイ・リュサック、ドルトンらによって研究されたが、ルニョーの精密な研究により、すべての気体の熱膨張率が同一ではないこと、ボイルの法則も厳密には成り立たないことが明らかになった(1853)。
17世紀以来、物理学者は気体を粒子状のものと考えてはきたが、具体的な描像はたいへんあいまいであった。動的な気体像である気体分子運動論は、熱力学の発展を背景として、19世紀なかば過ぎに、マクスウェルらによってようやく成立され、ボルツマンによって一般的な統計力学へと発展させられた。
[内田正夫]
化学的本性の認識
燃焼と呼吸に空気が必要なことは古くから知られていた。それをはっきりと証明したのがゲーリケとボイルの実験であった。イギリスのJ・メーヨーは、空気が燃焼と呼吸を支える、ある活性な成分を含んでいることを知り、これが硝石に類似した作用をもつことから「硝空気精」とよんだ(1674)。これは酸素にあたるが、そのことはただちに理解されたわけではなく、メーヨーの著作は100年間余り埋もれてしまった。18世紀には、シュタールの唱えたフロギストン説が有力となり、燃焼とは可燃物からフロギストンが逃げていく過程であると考えられた。
植物が空気からも栄養をとることをみいだした18世紀初めのヘールズは、水上置換法を発明してさまざまな気体を捕集したが、彼はそれらが化学的に異なった物質だとは考えず、たまたま不純物が混じった空気であるとみなした。初めて普通空気とは別種の化学物質として気体を認識したのはJ・ブラックであった。彼は石灰石の中に「固定された空気」、すなわち二酸化炭素を発見し(1756)、これに続いてキャベンディッシュ、J・プリーストリーらによって水素や酸化窒素が発見され、18世紀後半は気体化学の時代となる。D・ラザフォードは空気中の窒素が一つの気体であることを認め(1772)、シェーレとプリーストリーとがそれぞれ1771年と1774年に独立に酸素を発見した。フロギストン説を打ち倒して、酸素の化学的本性を正しく理解したのはラボアジエであった。彼は、この気体が燃焼と金属灰化において可燃物や金属と結合する空気の「純粋な成分」であることを証明し、普通空気が酸素と窒素とからなることを明らかにし、また呼吸も燃焼と同じく食物の酸化過程であると説明した。
空気の組成が地点や高度にかかわらず一定であることは、ゲイ・リュサックらによって確かめられた(1804)。さらに空気の成分として少量の希ガスが含まれていることがレイリーとW・ラムジー(ラムゼー)によって発見され、アルゴンと命名された(1894)。まもなく液体空気の分留によりクリプトン、ネオン、キセノンも発見された。
1827年ごろファラデーはいくつかの気体を液化した。液化が困難なため永久気体といわれた酸素や窒素は、1877年にカイユテとピクテRaoul Pictet(1846―1929)が液化に成功、1895年C・P・G・R・von・リンデは液体空気を大規模に製造した。液体空気の分留によって製造された窒素と酸素は、それぞれアンモニア合成や冶金(やきん)などに用いられ、20世紀以降の化学工業にとって重要な原料の一つとなっている。また19世紀後半以降、真空ポンプや圧縮機などの空気機械が次々に改良され、多方面の技術に応用されている。
[内田正夫]
『江沢洋著『だれが原子をみたか』新装版(1998・岩波書店)』