稲村ヶ崎(読み)イナムラガサキ

デジタル大辞泉 「稲村ヶ崎」の意味・読み・例文・類語

いなむら‐が‐さき【稲村ヶ崎】

神奈川県鎌倉市にあり、由比ヶ浜ゆいがはま七里ヶ浜とを分ける岬。新田義貞にったよしさだが太刀を投じて竜神に祈り、干潮を利用して鎌倉に攻め入ったという地。

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日本歴史地名大系 「稲村ヶ崎」の解説

稲村ヶ崎
いなむらがさき

[現在地名]鎌倉市稲村ガ崎一丁目

七里しちりはま東端に突出する岬。岬の形が稲束を積重ねた稲むらに似ているので、その名が起こったという。霊山りようぜん山の尾根がすぐ南方に突出した、東側の霊山ガ崎とともに、由比ガ浜の西端を限り、「吾妻鏡」元仁元年(一二二四)一二月二六日条によれば、鎌倉の疫病をのぞくために陰陽道の四角四境の鬼気祭が行われたとき、鎌倉の西の境界は稲村とされていた。

極楽寺坂ごくらくじざか切通が開かれるまでは、七里ヶ浜の海岸伝いに稲村ヶ崎の南面を通過して鎌倉に入るのが主要な交通路であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「稲村ヶ崎」の意味・わかりやすい解説

稲村ヶ崎
いなむらがさき

神奈川県鎌倉市の海岸の中央に突き出た岬。新田義貞(にったよしさだ)徒渉伝説地で、国指定史跡江ノ島電鉄の駅があり、鎌倉駅、小田急電鉄片瀬(かたせ)江ノ島駅からもバスが通ずる。岬は由比ヶ浜(ゆいがはま)と、七里ヶ浜とを分け、相模湾(さがみ)を一望に収められる景勝地。この海岸は古くからの交通路で、鎌倉時代には鎌倉の大手口で、四境祭の西方の祭場にされたこともあったが、風波が激しく難路として知られていた。元弘(げんこう)の変(1331)に新田義貞が鎌倉の北条氏を攻めたとき、西側の攻撃口としていた極楽寺切通(ごくらくじきりどおし)の守備が堅くて破ることができず、稲村ヶ崎の岩頭から、自分が佩(お)びていた黄金(こがね)づくりの太刀(たち)を海中へ投げ入れて、竜神に潮の引くことを祈り、磯(いそ)伝いに一挙に攻め込んだという伝説はあまりに有名。岬の西側の高台は公園になっており、新田義貞の碑や、「真白き富士の嶺(ね)」の歌で知られる逗子(ずし)開成中学生のボート遭難の碑がある。

[浅香幸雄]


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改訂新版 世界大百科事典 「稲村ヶ崎」の意味・わかりやすい解説

稲村ヶ崎 (いなむらがさき)

神奈川県鎌倉市の南西部にある相模湾に突出する懸崖。この岬によって湾岸を由比ヶ浜と七里ヶ浜に分ける。古くは干潮時には海寄りを渡渉できたらしく,《海道記》にも岬を回ったことがみえる。1333年(元弘3)の新田義貞の鎌倉攻めでは,義貞がここに黄金造りの太刀を投じて進路を開いたという史話にちなんで史跡に指定されている。鎌倉から江ノ島に通じる海岸の湘南道路は1933年の開設。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「稲村ヶ崎」の意味・わかりやすい解説

稲村ヶ崎
いなむらがさき

神奈川県南東部,鎌倉市の相模湾にのぞむ小岬。鎌倉時代には鎌倉四境の1つとして要害の地であった。元弘3=正慶2 (1333) 年北条氏攻略に向った新田義貞佩刀を海神に投じたところ,海水沖合いに引いたので,干潟を渡って鎌倉に攻め入ったと伝えられる。新田義貞徒渉伝説地として,一帯は史跡に指定されている。

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事典・日本の観光資源 「稲村ヶ崎」の解説

稲村ヶ崎

(神奈川県鎌倉市)
かながわ未来遺産100」指定の観光名所。

稲村ヶ崎

(神奈川県鎌倉市)
かながわの景勝50選」指定の観光名所。

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