称念寺(読み)しょうねんじ

精選版 日本国語大辞典 「称念寺」の意味・読み・例文・類語

しょうねん‐じ【称念寺】

千葉県長生郡長南町千田にある浄土宗の寺。山号は唐竺山。本尊は阿彌陀如来。徳治二年(一三〇七)真教が創建。歯痛に霊験があるとして信仰される。千田の如来さま。

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日本歴史地名大系 「称念寺」の解説

称念寺
しようねんじ

[現在地名]橿原市今井町三丁目

今井いまい集落のほぼ中央に所在する。今井山と号し、浄土真宗本願寺派今井御坊と称し、京都西本願寺の大和五ヶ所御坊の一つ。本尊阿弥陀如来は伝快慶作。本堂は入母屋造・平入・一〇間四方・向拝付・本瓦葺で徳川頼宣寄進の「功徳蔵」の三字木額を掲げる。ほかに大門・鐘楼・庫裏・客殿・別客殿(行在所)などがある。

今井氏系譜(称念寺文書、以下断りのない限り同文書)および称念寺由緒之覚(龍谷大学蔵)によると、開基の河瀬兵部丞富綱はもと近江国河瀬かわせ荘の住人で真宗に帰依して忍尊と称していたが、浪人となって今井に移り、天文一〇年(一五四一)一寺を建立し、大和平野における真宗の拠点としたという。今井には当寺を中心とした寺内町が形成され、本願寺が織田信長と交戦するに至り、寺内町を堀と土塁で囲んだ防御施設を備え、大和における対信長の中心となった。

称念寺
しようねんじ

[現在地名]丸岡町長崎

長崎ながさき東部の水田中にある。時宗。長林山往生院称念寺と称し、本尊阿弥陀如来。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔泰澄の開創〕

長禄三年(一四五九)記の当寺縁起によれば、養老五年(七二一)泰澄の草創で、念仏堂と号していたが、正応三年(一二九〇)他阿真教の化導によって時宗となり、当地の称念房・道性・仏眼の有徳人三兄弟によって伽藍が建立されたという。寺号は称念房にちなむ。また道性は光明院西教さいきよう(現廃寺)を建て、仏眼は私財いっさいを他阿に寄進して光明院の倉としたという。光明院はのちに奈良興福寺末寺となり、四条家領長崎荘を管理したらしい。

称念寺
しようねんじ

[現在地名]上越市寺町二丁目

天崇てんそう寺の北隣にある。時宗で西方山無量寿院と号し、本尊阿弥陀如来。遊行六代一鎮(鐙上人)を開山として嘉暦二年(一三二七)府中ふちゆうに創立され、当初応称おうしよう寺と称した(延宝年間「高田町寺社由緒書上」国会図書館蔵、「頸城郡誌稿」)。この頃越前長崎ながさき(現福井県坂井郡丸岡町)にも称念寺という同宗の寺があり、応称寺二世薗阿は両寺を兼帯していた。薗阿は夢相国師の弟子で知道兼備で知られ、足利将軍家から新田義貞の亡魂の祟りを鎮めるよう祈願を頼まれた。薗阿の祈願により霊は鎮まったため足利氏は両寺に多くの寺領を寄付した。

称念寺
しようねんじ

[現在地名]小山市小薬

小薬こぐすりの南に位置し、田屋山無量寿院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば建久元年(一一九〇)念仏行者諦院によって創建され田屋坊称念庵と称し、応永一三年(一四〇六)、梶原景行が益子の円通ましこのえんつう寺開山良栄の弟子良懐に帰依し、良懐を開山として浄土宗に改めさせたといわれる。以後梶原氏の菩提寺となったという。また文安二年(一四四五)田谷と称する地から当地に移転し、応仁二年(一四六八)に梶原氏より寺領が寄進されたとも伝える。

称念寺
しようねんじ

[現在地名]二本松市本町

二本松神社の東北東に位置する。境内に畠山氏累代の霊廟と、一一代義継とともにあわの戦で戦死した二三名の家臣が祀られている。二松山安達院と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。「松府来歴金華鈔」によれば、畠山満泰が畠山家の菩提寺として二本松城(霧ヶ城)の麓、道場どうじよう谷に開基した。この道場谷は丹羽氏二本松城(霞ヶ城)の三の丸にあたる。天正一四年(一五八六)伊達勢の侵入に際し、住僧は寺宝を持って落延び、信夫しのぶ大森おおもり城下うち(現福島市)に称念寺を再建した。その位置は明確でないが、明治の地籍図および地籍帳に道場内どうじよううち道場前どうじようまえという字名があるので、その付近に寺域があったと推定される。

称念寺
しようねんじ

[現在地名]与板町槙原

槙原まきはらの集落南側にある。浄土真宗本願寺派、得住山と号し、本尊阿弥陀如来。寺蔵の本願寺釈教如花押の蓮如上人真影裏書に「慶長九申辰年六月十五日、浄興寺門徒正覚寺下、越後国山東郡吉河庄与(ママ)郷前原村称念寺」とあり、慶長九年(一六〇四)を開創とし、開基を専性とする。しかし、嘉吉二年(一四四二)とある称念寺縁起の写本(同寺蔵)によれば、籠宅氏が善光寺で帰依し、小諸こもろ(現長野県小諸市)・関東を経て越後国上田うえだ(現南魚沼郡)に寺基を定め、その後栃尾に移り、さらに当地の字古屋敷ふるやしきを経て、中興の祖と称される七代了受により字北河内きたこうちに新仏堂式に堂宇が造営されたという。

称念寺
しようねんじ

[現在地名]福井市西木田三丁目

無量寿山と号する。真宗大谷派であったが、現在は単立。本尊阿弥陀如来。寺院明細帳(福井市史)は開基を江守えもりふち村願行坊とする。天正二年(一五七四)一〇月一八日の専修寺賢会書状(勝授寺文書)に「江森之内田名字にて候願行」とみえる人物と同一人と考えられ、大町専修おおまちせんしゆう(現福井市)門徒から東西分立の際、東派に帰したらしい。慶長七年(一六〇二)北庄常盤きたのしようときわ(現同市)に移り、万治二年(一六五九)の大火で類焼後現在地に移った。

称念寺
しようねんじ

[現在地名]上京区西熊町

「猫寺」の名で親しまれる。浄土宗。本空山無量寿院と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、慶長一一年(一六〇六)称念の遺風を慕う行阿が、伏見ふしみ(現京都市伏見区)城代の松平信吉の帰依をうけて創建。寛永一四年(一六三七)洛中絵図では、東西四三間半・南北二二間半の地を占める。享保一五年(一七三〇)の西陣大火で類焼(西陣天狗筆記)、宝暦五年(一七五五)転法輪前右府が再建(坊目誌)。近世洛陽四八願寺巡拝の第一〇願札所として(京羽二重)、また六月一日の霊宝の虫払などに庶人の参集をみた(浄家寺鑑)。本尊阿弥陀如来は恵心(源信)の作と伝え(東西歴覧記)、もと正念寺にあったのが称念に属し、その後俗家に安置されていたのを、行阿が当寺創建の折、本尊としたという(浄家寺鑑)

称念寺
しようねんじ

[現在地名]高松市十川東町

さぎ池の東側、十河そがわ城跡に所在。頓証山清光院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「讃岐国名勝図会」に生駒家古書写として、称念寺に宛てた慶長一〇年(一六〇五)の生駒家臣松原小助書状を載せる。これによれば、十河存保の菩提寺である当寺に、「宮の地下にて田一反、道之下にて田一反、旦原にて畑六畝」を寄せ、また十河城跡(寺地)は検地免除とした。当地は萱生大膳が知行地として与えられていたが萱生氏が藩主に請い許可を得たもので、つつがなく十河氏の菩提を弔うよう記している。

称念寺
しようねんじ

[現在地名]奈良市東木辻町

東木辻ひがしきつじ町南部に所在。一心山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。開基は俊乗坊重源。慶安元年(一六四八)頓誉が中興。境内に寛政五年(一七九三)の芭蕉百回忌に建てられた「菊能香也奈良爾盤婦留幾仏達」と刻まれた芭蕉句碑がある。

称念寺
しようねんじ

[現在地名]小山市網戸

結城山安養院と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。他阿真教を開山、永仁五年(一二九七)網戸朝村の開基と伝える。朝村は小山朝光の子で、網戸十郎を名乗った。文和四年(一三五五)と同五年、延文三年(一三五八)、応永五年(一三九八)の年紀の宝篋印塔が四基あり、いずれも乱積みである。

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