秋田実季(読み)あきた・さねすえ

朝日日本歴史人物事典 「秋田実季」の解説

秋田実季

没年万治2.11.29(1660.1.11)
生年:天正4(1576)
戦国末・江戸初期の津軽安藤(東)氏の後裔。秋田家中興の祖。安藤氏は戦国期には檜山安藤氏と湊安藤氏に分かれていたが,檜山安藤の愛季が湊安藤に入嗣して両家を合一した。実季はこの愛季の第2子。藤太郎,宗実,凍蚓と号した。天正15(1587)年9月父愛季の死去後13歳で家督を継いだが,翌年太平城主永井広治が反抗するなど領内では動揺が広がっていった。17年一門の重鎮である豊島道季が角館戸沢氏と結び湊城を拠点に挑戦してきたが(湊合戦),苦戦の末豊島氏を倒して領内統一を進め,武藤,南部,津軽各氏の侵入を退けるとともに,比内浅利氏を屈服させて,秋田,檜山,比内3郡にまたがる領国を確立。居城も檜山(能代市)から湊(秋田市土崎)に移した。19年の豊臣秀吉奥羽仕置に当たり,檜山,秋田両郡内に5万2440石余を与えられ,他に太閤蔵入地2万6240石余の管理を命じられた(総高7万8600石余)。朝鮮侵攻を目前にした秀吉が「秋田杉,秋田金」を入手するためにとった措置ともいえる。さらに中世以来担ってきた蝦夷沙汰松前(蠣崎)慶広の任務に切り替えられた。秀吉の伏見城,敦賀城造営および朝鮮出兵にあたっては,北国海運を利用して材木兵力を送っている。文禄3(1594)年成立の『秋田城之助殿分限帳』では,知行地6万8000石余,蔵入地2万9000石余(総高9万8500石余)となっており,このように検地などを通じて近世大名へと脱皮していった。しかし,慶長7年常陸佐竹氏の秋田への転封により常陸宍戸に転封し,10年には従五位下秋田城介となり,大坂冬夏両陣にも参陣。寛永8(1631)年仕置の落ち度を理由に伊勢朝熊(伊勢市)に蟄居させられ,同地で死去。歌道,文筆,茶道にすぐれた。同家はその後,正保2(1645)年5万5000石で奥州三春に転封となり,明治維新をむかえた。

(伊藤清郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「秋田実季」の意味・わかりやすい解説

秋田実季 (あきたさねすえ)
生没年:1576-1659(天正4-万治2)

戦国・江戸前期の大名。出羽国檜山(ひやま)城主安東愛季(ちかすえ)/(よしすえ)の第2子で,藤太郎などと名のる。1589年(天正17)居城を湊(秋田市土崎)に移し,秋田城介を名のり,以後秋田を姓とした。秋田,檜山,比内の3郡を支配し,翌々年豊臣秀吉より領国5万石余を安堵され,領国内設置の太閤蔵入地の代官となった。1602年(慶長7)常陸国宍戸5万石に転封,30年(寛永7)伊勢朝熊に配流され,同地で死去した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「秋田実季」の解説

秋田実季 あきた-さねすえ

1576-1660* 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
天正(てんしょう)4年生まれ。安東(秋田)愛季(よしすえ)の子。天正の末ごろ出羽(でわ)の秋田など3郡を領した。関ケ原の戦いで徳川方につき,慶長7年常陸(ひたち)(茨城県)宍戸(ししど)に転封(てんぽう),宍戸藩主秋田家初代となる。5万石。10年秋田城介(すけ)。のち失政を理由に伊勢(いせ)(三重県)朝熊(あさま)に蟄居(ちっきょ)を命じられた。万治(まんじ)2年11月29日死去。84歳。通称は安東太郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の秋田実季の言及

【秋田氏】より

…戦国末期に下国愛季(ちかすえ∥よしすえ)が出て,秋田湊,野代檜山のおのおのを拠点とする安東勢力を統一し,南は豊島郡から北は比内郡に及ぶ領国の支配を固めた。その子秋田実季(さねすえ)のとき,太閤仕置をうけ,5万2000石余を安堵され,太閤蔵入地として没収された旧領2万6000石余の管理も許可された。代々相伝してきた蝦夷地管轄の権限は蠣崎(かきざき)氏に替えられたが,この後,近世大名への脱皮に成功。…

※「秋田実季」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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