秋田(県)(読み)あきた

日本大百科全書(ニッポニカ) 「秋田(県)」の意味・わかりやすい解説

秋田(県)
あきた

東北地方の北西部に位置する県。首都東京からは真北に約450キロメートルの距離にある。南北約145キロメートル、東西約90キロメートルの細長い形で、西部は日本海に臨むが、東部は奥羽(おうう)山脈によって岩手県と画され、北部の青森県境は白神(しらかみ)山地、南部の山形・宮城県境は丁岳(ひのとだけ)山地、神室(かむろ)山地で限られる。このため長く他地域とは隔絶され、太平洋側との連絡があったのは盛岡藩領の鹿角(かづの)地方だけに限られ、近世までは西廻(にしまわり)海運による上方(かみがた)との結び付きが強かった。

 山地が多く、気象条件にも恵まれて藩政時代から杉の育成が図られ、秋田杉は三大美林に数えられた。現在も全国的にみると林業の占める割合は高い。秋田県は地下資源が豊富で、院内・阿仁(あに)(秋田領)、尾去沢(おさりざわ)・小坂(盛岡領)などの鉱山は藩の財政を支えてきたが、1994年(平成6)これらの鉱山はすべて閉山した。日本海に注ぐ米代(よねしろ)川、雄物(おもの)川、子吉(こよし)川流域の盆地や平野、八郎潟(はちろうがた)干拓地は水田化率が高く、秋田米の産地として知られ、新潟、宮城に並ぶ米どころである。

 秋田という地名は、『日本書紀』の斉明(さいめい)天皇4年(658)の条に、阿陪臣(あべのおみ)(阿倍比羅夫(あべのひらふ))が齶田(あきた)、渟代(ぬしろ)2郡の蝦夷(えみし)を討つとあるのが初見である。古来出羽国(でわのくに)と陸奥国(むつのくに)に属し、1868年(明治1)両国の分割に伴い、新設の羽後国の大部分と陸中国の一部を占めることになった。1871年廃藩置県により秋田県が成立した。2020年(令和2)の国勢調査では、面積1万1637.52平方キロメートルで全国第6位であるが、人口95万9502人、人口密度1平方キロメートル当り82.4人で、北海道、岩手に次ぐ人口希薄地域である。2002年4月には9市9郡50町10村からなっていたが、平成の大合併を経て、2020年10月時点では13市6郡9町3村となる。県庁所在地は秋田市。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

自然

地形

県の東部は東北地方の分水界(ぶんすいかい)をなす奥羽山脈が縦走して岩手県との境をなしている。奥羽山脈の第三紀層の褶曲(しゅうきょく)隆起帯上には八幡平(はちまんたい)、森吉(もりよし)山、乳頭(にゅうとう)山、駒ヶ岳(こまがたけ)、栗駒(くりこま)山などの火山が噴出し、十和田(とわだ)湖、田沢湖のカルデラ湖が形成され、十和田八幡平国立公園、栗駒国定公園の景観をみせている。奥羽山脈の西側を走る出羽山地は平均標高500メートル。山脈を切断するように、米代川、雄物川、子吉川が西流して日本海に注いでいる。米代川の流域には花輪、大館(おおだて)、鷹巣(たかのす)の3盆地と下流に能代(のしろ)平野があり、雄物川流域には横手盆地、秋田平野、子吉川流域には本荘(ほんじょう)平野が展開している。出羽山地の西方、南部の山形県境に鳥海山が噴出、周囲一帯は鳥海国定公園をなす景勝地である。北部は白神山地によって青森県と境し、南部は鳥海山のほか丁岳山地、神室山地があって他地域との隔絶性を大きくしている。また、日本海に突出する男鹿半島(おがはんとう)は、古くは島であったが、南北二つの砂州によって陸繋(りくけい)化したもので、それにより八郎潟が形成された。半島のほぼ全域が男鹿国定公園に指定されている。県立自然公園は八森岩館、秋田白神、田代岳、きみまち阪、森吉山、太平山、田沢湖抱返り、真木真昼の8か所。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

気候

日本海式気候で、冬は北西季節風の影響で11月から3月までが降雪期間となる。梅雨の影響は少なく、夏には奥羽山脈から南東風が吹き下ろし、乾燥することがある。海岸部は、対馬(つしま)海流の影響で冬は内陸部より暖かく、夏の気温も内陸部より低めである。快晴日数は少なく、年間で約20日ほどであり、日照率も低い。また、積雪日数の最高は十和田湖畔の156日、院内(湯沢市)の128日という記録があり、積雪量は北秋田市阿仁地区の142センチメートル、湯沢市の138センチメートルなどの多雪記録が残る。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

歴史

先史・古代

旧石器時代の遺跡は県内各地から発見されているが、これまでのところ大仙(だいせん)市協和地区の米ヶ森遺跡(よねがもりいせき)から約1000点の旧石器の存在が確認されているのが最大である。縄文土器は県内全域で広く確認されており、このなかにはストーン・サークルとして著名な鹿角(かづの)市大湯(おおゆ)の環状列石(特別史跡)のように、全国的にみても注目すべきものが含まれている。日本海側に少ない貝塚は数例が確認されるにとどまっている。弥生(やよい)遺跡・遺物も各地から多く発掘されており、そのうちには住居跡を含むものも確認されている。1957年(昭和32)南秋田郡若美(わかみ)町(現、男鹿市)志藤沢遺跡(しとざわいせき)から籾痕(もみあと)のある土器片が発見されたことは東北地方における稲作の伝播(でんぱ)の注目すべき事実として広く学界の注目を浴びた。またすぐ近くの同郡井川町新間遺跡(あらまいせき)からも1966年同種のものが発見されたが、いずれも2~3世紀前後のものと推定されている。

 古墳の初見は比較的遅く、8世紀以降のものが10余確認されたが、いずれも小規模で、埋葬者の判明するものはいまのところない。『日本書紀』によれば斉明(さいめい)天皇4年(658)の条に齶田(あきた)・淳代(ぬしろ)の2郡を設けたとある。712年(和銅5)には出羽(でわ)国が設けられ、733年(天平5)には、出羽柵(いではのき)が北進して秋田村高清水岡(たかしみずのおか)(現、秋田市)に築かれ、やがて秋田城(秋田城跡として国指定史跡)とよばれるようになった。国府(こくふ)も山形庄内(しょうない)の地からこの地に移され、8世紀中ごろには中央政府の支配がこの地に浸透したものとみられる。しかし878年(元慶2)この地方におこった大規模な城下の俘囚(ふしゅう)や蝦夷(えみし)の反抗にみられるような反乱が相次いでいる事実はこの地の中央の支配がかならずしも安定したものでなかったことを示している。

 なおこの秋田城跡の調査は継続して進められており、これまでにも1200年前の人間の胎盤と貨幣「万年通宝」の入った胞衣壺(えなつぼ)が、当時の住居跡からほぼ完全な状態で出土し、銀製の和同開珎(わどうかいちん)が1枚出土し、建物の中から、桶(おけ)にためた水を使って木製の樋(とい)で沼地に流し込む方式の「水洗トイレ」の遺構が確認されるなど、きわめて注目すべき事実が相次いでみいだされている。

 次にこれまでに文献上に現れない大仙市払田(ほった)の大規模な払田柵跡(ほったのさくあと)(国指定史跡)については秋田県払田柵跡調査事務所によるこれまでの調査で創建年代が9世紀初期と確認された。これにより、いまなおその位置が確認されていない759年(天平宝字3)創建の雄勝城(おがちじょう)説は薄れた。またこれまでの調査により、城柵官衙(かんが)遺跡としては初めて竪穴(たてあな)住居と一体の掘立て柱式建物も発掘されるなど注目すべき事実が相次いで発見されているが、なおこの柵の全容解明には今後に問題を残している。

 11世紀に入ると、前九年の役(1051~1062)には出羽仙北(現在の大仙市、横手市および雄勝・仙北2郡)の俘囚長清原武則(きよはらのたけのり)が軍功により1063年(康平6)鎮守府将軍に任じられ、陸奥(むつ)の在地豪族の安倍氏の旧領地を収め、奥羽(おうう)最大の在地豪族になったが、清原氏一族の内紛からおこった武力抗争、いわゆる後三年の役(1083~1087)では1087年(寛治1)9月金沢柵(かねさわのき)(現、横手市金沢)での合戦を最後に清原氏が滅び、その後、平泉(ひらいずみ)に拠点を置く藤原氏の支配に組み込まれていった。この時期の在地の農業経営のようすなどは明らかではないが、多くの軍勢の基盤となった雄物(おもの)川上流域の出羽仙北の地の農業生産力はけっして低いものではなかったものとみられる。

[高橋秀夫]

中世

鎌倉時代から室町時代のこの地の動向は、文献からはあまり明らかではない。地頭の配置された者の数人の名が判明するが、荘園(しょうえん)が存在したかどうかも確かではない。

 1990年(平成2)、平鹿郡十文字町(じゅうもんじまち)植田(うえた)(現、横手市)で排水路工事のため溝を掘っていたところ3088枚の古銭が出土した。この古銭は紀元前2世紀ころの前漢時代から13世紀の南宋時代に及ぶ中国製のものである。これらの貨幣は鎌倉中期から南北朝の時期にかけてこの地に伝えられ、この地に本拠を置く武士団が使用し、貯蔵したものとみられている。これらの貨幣がいつ、どのような経路でもたらされたものかはまだ推測の域を出ないが、これまでのところ日本海を北上し、雄物川をさかのぼり、もたらされたものとの見方が有力である。室町時代から16世紀の戦国時代にかけて平鹿郡の小野寺氏、仙北の戸沢(とざわ)、本堂(ほんどう)、六郷(ろくごう)氏など、また由利(ゆり)郡各地に輩出したいわゆる由利十二頭(ゆりじゅうにとう)といわれた12人の豪族、雄物川河口の秋田湊(あきたみなと)(土崎(つちざき))から男鹿(おが)半島を中心に、北は津軽(つがる)にかけての日本海沿岸一帯をその勢力下に置いた秋田安東氏などが出現し、互いに対立抗争を繰り広げていった。この背景には、各地に郷(ごう)を支配するいわゆる国人層といわれる武士団の成長があった。これまでに秋田県内には全域にわたって大小あわせて約900余の城館跡が確認されているが、この大半が鎌倉時代から戦国時代にかけてのものであることはそれを裏づけている。1590年(天正18)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命による奥羽検地ののち、秋田氏はじめこの地の各領主の支配地内に太閤蔵入地(たいこうくらいりち)が設定され、朝鮮出兵にも秀吉の命により出陣した。1593年(文禄2)以降は、秀吉の命により米代(よねしろ)川流域の豊富な杉材が河口の能代(のしろ)を経由して海路上方(かみがた)に搬出されたが、このことはこの時期には広く日本海舟運が行われており、また杉の巨木がこの地に存在していたことなどの情報が広く知られていたことを示している。この舟運には北陸の敦賀(つるが)・小浜(おばま)(福井県)にあって廻船(かいせん)業を営む豪商が担っていた。

[高橋秀夫]

近世

1602年(慶長7)徳川家康は関東常陸(ひたち)(茨城県)の佐竹氏に秋田への転封を命じ、同時にこれまで秋田の地にあった秋田、戸沢、六郷、本堂氏らは常陸に移された。このとき、由利郡は最上(もがみ)氏の支配とされたが、1622年(元和8)最上氏が改易され、翌1623年岩城(いわき)氏が信州川中島から亀田(2万石)へ、常陸から六郷氏が本荘(ほんじょう)(2万石)へ幕府の命により移され、1640年(寛永17)生駒(いこま)氏が矢島(やしま)(1万石)に入った。鹿角(かづの)郡は南部(なんぶ)氏の盛岡藩領となり、以後廃藩に至るまでこうした秋田における支配領域に変化はなかった。秋田の地の大半を支配した佐竹氏は1664年(寛文4)徳川幕府から正式に20万石余りを与えられ、先に1605年(慶長10)幕府から鷹場(たかば)として与えられていた下野(しもつけ)国(栃木県)のうちの5800石余を加えた20万5800石余の表高が公認された。秋田藩では17世紀前半から新田開発を進め、また院内、阿仁(あに)、南部領尾去沢(おさりざわ)など全国的にみても有数の鉱山や、のちに秋田杉として著名な豊富な森林の開発などを進めていった。1701年(元禄14)蔵出(くらだし)2万石を分知して秋田新田藩が建てられた。17世紀後半、西廻航路(にしまわりこうろ)が完成し直接大坂市場と結ばれ、米の移出がその多くを占め、木綿、衣類、塩などがもたらされ、江戸時代後半には北の松前との交易もしだいに活発化していった。文化の面でも18世紀に秋田蘭画(らんが)や、後期には佐藤信淵(さとうのぶひろ)、平田篤胤(ひらたあつたね)などの国学者を生み出すなどの動きもみられた。維新の際には周囲の包囲に抗して朝廷側にたち、戊辰(ぼしん)戦争を戦った。

[高橋秀夫]

近・現代

1871年(明治4)秋田藩領に盛岡藩領鹿角郡と由利郡全域を加えて秋田県が成立した。豊富な森林の多くは国有林に編入され、おもな鉱山は官有を経て中央の豪商の手に帰し、後には三菱、住友などの大資本にその経営が移った。明治以降、農業面では乾田馬耕、腐米改良などの技術の進展もあり米作農業が主要な産業として発展を遂げた。三菱の経営した尾去沢鉱山荒川鉱山、古河(ふるかわ)の阿仁鉱山、院内鉱山など明治以降も盛んに稼働し、国有林を中心とする豊富な秋田杉の林業も発展した。また昭和初期には秋田市の八橋油田(やばせゆでん)も産出を開始し、昭和40年代まで全国有数の油田であった。こうした三大産業の展開は県人口の増加をもたらした。県内人口は1880年(明治13)61万人余であったものが、1890年(明治23)には70万人を超え、その後も逐次増加し1926年(昭和1)93万余、1931年に初めて100万人を超え、1956年134万9000人とピークになり、以降漸次減少し2005年(平成17)は約115万人となっている。このような1960年代以降の人口減少傾向は、鉱山業の衰退、豊富な森林の乱伐による資源の枯渇もあったが、高度経済成長による労働力の流出と、それに追い打ちをかけた稲作の減反政策による基幹産業である農業の衰退によるところが大きな要因であった。こうしたなかにあって全国から注目を浴びて1958年(昭和33)起工式をあげた八郎潟(はちろうがた)干拓事業は、1964年大潟村(おおがたむら)の誕生、1966年全国から募集して第一次入植が開始され新農村のスタートを切ったが、1戸平均15ヘクタールの大規模稲作経営も例外なく減反の影響を受けた。この事業の歴史的評価は21世紀にもち越されているといえる。

[高橋秀夫]

産業

長い間、秋田県の産業の主体をなしたのは、農業、林業、鉱業である。近年、総就業者数中農業従事者の占める比重は低くなっているが、農業が県の基幹産業であることには変わりない。米代川流域をはじめとして杉の育成に適し、藩政時代に植林に力を注いだこともあって、秋田杉の美林を形成してきた。しかし、天然秋田杉の蓄積量は1979年をピークに減少している。秋田県の地質は、陸上または浅海に堆積(たいせき)した火山噴出物と考えられるグリーンタフ(緑色凝灰岩)が主で、黒鉱(くろこう)鉱床や金属鉱脈を多く含んでいる。17世紀初頭から金、銀鉱山が開発され、秋田藩の経済を支えてきた。海岸地域には原油と天然ガスが埋蔵されており、かつては全国産油量の80%を占めた。工業は1960年代後半からとくに力が入れられ、秋田湾地区の開発が進められている。1980年代からは臨空港型の「秋田テクノポリス(1984年承認)」の建設が進められ、電子・電気機械の製造の伸びが著しい。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

農業

県の総耕地面積は15万1700ヘクタール(2006)で、県総面積の13.1%を占める。うち13万1400ヘクタール(86.6%)が水田、1万2100ヘクタール(8.0%)が畑、2970ヘクタール(2.0%)が樹園地である。

 米の収穫量は、2006年では54万0100トンで、新潟、北海道に次ぐ米産県である。耕地は米代川、雄物川、子吉川流域に多く、とくに雄物川流域での水田率が高い。八郎潟の干拓により1万7000ヘクタールの水田が開発された。2004年の農家の農業粗収益のうち稲作による比率は約57%で、全国の22%に比べはるかに高い。秋田県の稲作技術は第一次世界大戦前は全国でも最下位に近い状態であったが、農地改革の終わった1955年以後、土地改良、耕地整理、品種改良、三早栽培(早蒔(はやま)き、早植え、早刈り)などにより急速に発展し日本最高水準に達した。県生産量のうち約25%を県外に移出している。1985年より本格的に生産の始まった「あきたこまち」は、全国的に高い評価を受けており、1988年より作付面積は第1位となっていて、2004年には88%を占める。畑地面積は少なく、野菜類は県内需要量を満たしえず、その多くを県外に求めているが、大豆は北海道と並び、全国で有数の生産県である。また1980年代より「フライト農業」(航空機を利用して移出する農業)の取組みを始め、ジュンサイやとんぶりは特産物として空港から都市圏へ空輸されている。果実類の生産はリンゴ、ブドウ、ナシ類が主である。もっとも生産量の多いのはリンゴで、3万0400トン(2005)であるが、やや減少の傾向にある。生産量の2分の1以上を横手市で占める。近年では、サクランボ、モモなども栽培されている。

 畜産は、かつては岩手、青森に次ぐ馬産地であったが、第二次世界大戦後大きく変わった。1945年(昭和20)に1万3000頭いたウマは、2007年(平成19)には170頭に激減した。現在は、ブタ、牛、ニワトリの飼育が主である。地鶏の比内地鶏の生産拡大が進められている。

 1戸当りの経営耕地面積では全国でも有数であるが、兼業化が進み、農家総所得に占める農業所得は約16%で、農外所得に対する依存が高まっている。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

林業

森林面積は82万1000ヘクタール(2005)で県土の71%を占めている。うち国有林は約37万5000ヘクタール(46%)、民有林は約44万6000ヘクタール(54%)である。民有林の内訳は、私有林が84%、公有林が16%となっている。樹林地の約40%は米代川流域に、35%は雄物川流域に分布する。広葉樹林は48%、針葉樹林は52%で針葉樹林が若干多く、広葉樹林ではブナ、針葉樹林では杉が多い。1985年ごろより人工林率が多くなり、県全体で50%、民有林では57%、国有林では41%を占めている。スギ人工林面積は全国一の36万6000ヘクタールに達している。林業産出額は111億8000万円で、そのうち木材が69%、栽培キノコ類が30%を占めている。キリは価格の安い輸入桐におされ減少傾向にあるが、全国唯一の専門原木市場をもっており、生産量は全国第2位である。林業就業者数は約1500人余(全就業者数の0.4%)で減少傾向にあり、年々高齢化が進んでいる。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

水産業

200キロメートルの海岸線を有するが、海面漁業は山形県とともに不振である。2005年(平成17)の漁獲量は1万0880トンで、1990年の66%に減少している。沿岸漁業が主で、約1400人弱の就業者1人当りの漁獲量は約8トンにすぎない。漁獲量の多いのは男鹿半島の船川(ふながわ)、北浦、戸賀漁港、県北の八森、県南の象潟(きさかた)、金浦、平沢の各漁港である。漁獲量が多いものとしては、ホッケ、カレイなどがあげられる。ハタハタは秋田県の魚として全国に知られており、ピーク時(1966~1968)には2万トン前後の漁獲量があったが、1976年ごろより減少し1992年には45トンにまで激減した。県では、独自にハタハタの全面禁漁期間(1992.9~1995.6)を設定し、資源回復に努めた結果、漁獲量は増加の傾向にあり、2005年には1867トンとなっている。内水面漁業の漁獲量はワカサギ、サケ、マスなどが多い。コイ、ヒメマスなどの養殖も行われている。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

工業

1963年(昭和38)に始まった「秋田県総合開発計画」により、工業化は本格化した。2005年度の事業所数は2492で、そのうちの51.4%は食料品、衣服などの生活関連型産業で占められ、木材・木製品、金属製品などの基礎素材型産業が29.1%、一般機械などの加工組立型産業が19.5%となっている。従業者数は7万6000人、製造品出荷額等は1兆4026億円で、県内総生産のうち工業の占める割合は13.4%である。出荷額等を業種別にみると、第1位は電子製品・デバイスの37.7%で、県南部のにかほ市平沢・象潟(きさかた)町周辺でTDK関連の製品、秋田空港周辺での日本電気などの進出企業の製品などの生産額が伸びている。第2位はパルプ・紙等で、従来の秋田杉を使った木材・木製品にかわって割合が上昇し、12.7%を占める。以下、一般機械8.1%、輸送機械等が7.8%と続くが、他県と比べて機械類の占める割合は小さい。食料品工業は7.0%を占め、清酒醸造が高い比率を占めることに特徴がある。そのほか、非鉄金属工業は、従来県北の小坂町、大館市周辺の黒鉱精錬を主としていたが、1970年ごろから秋田市臨海部に非鉄大手企業との共同出資による亜鉛精錬所が進出し、県内鉱が閉山した1994年以降は、県外鉱と輸入鉱石の精錬を行っている。

 地域的にみると、米代川流域、秋田市臨海地域、旧本荘・由利地域に集積するが、秋田市周辺地域が事業所数、出荷額ともいちばん多い。

 秋田県の伝統産業は家内工業的な零細なものが多く、地場産業として企業化したものは少ない。そのなかで、天明(てんめい)年間(1781~1789)に始まった仙北市角館町の樺細工(かばざいく)、平泉(ひらいずみ)の秀衡椀(ひでひらわん)の流れをくむという説もある湯沢市の川連漆器(かわつらしっき)、秋田杉を材料とする大館市の「曲げわっぱ(まげわっぱ)」は国の伝統的工芸品の指定を受け、製造に従事する工人も比較的多い。このほか、養蚕の発達とともに生まれた秋田畝織(うねおり)、秋田黄八丈(きはちじょう)、飛騨(ひだ)の工人が技法を伝えたという能代春慶(しゅんけい)塗、秋田杉を利用する五城目(ごじょうめ)たんす、ブナ材利用の湯沢市の曲木(まげき)家具と木地山(きじやま)こけし、鹿角市の紫根(しこん)染・茜(あかね)染、秋田市の銀線細工・八橋(やばせ)人形、横手市の中山人形、かつては東北でも有数の窯であった白岩(しらいわ)焼(仙北市角館町)を継ぐ大仙市南外(なんがい)の楢岡(ならおか)焼などがある。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

鉱業

秋田県は鉱産資源に恵まれ、金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱などの非鉄金属と、珪藻土(けいそうど)、ゼオライト、重晶石の非金属、石油、天然ガスを産出してきた。これらの資源は地域経済の発展を支え、重要な役割を果たしてきたが、不景気が長期化し、急激な円高と国内金属価格の低迷により、県内の非鉄金属鉱山のすべてが前述のように1994年(平成6)末で閉山に至った。製錬業においても人員削減を伴う合理化が行われ、鉱石からの亜鉛地金の生産が中止された。1996年に入ると在庫不足による海外市況の好転や為替の回復により、金、銀、鉛、亜鉛の価格が上昇し、新規工場の設立や電気亜鉛の増産工事などが行われるようになった。現在、鉱山にかわる新しい産業の創出のため、鉱業技術を活用した有用金属リサイクルの技術開発や高純度製錬研究のほか、優良鉱石確保のため、ロシアとの鉱業技術交流や、採算性の高い金鉱床を対象とした基礎的探査が実施されている。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

交通

国道13号は、藩政時代に出羽や津軽の参勤交代路であった羽州街道(うしゅうかいどう)に相当し、秋田市で日本海沿いを北上してくる国道7号と会合する。7号はかつての羽州浜街道(酒田街道)で、秋田市以北はほぼ羽州街道を踏襲しながら青森へ至る。この2線が秋田県の基幹道路で、国道46号、103号、105号、107号、108号、341号などが県内を横断し、岩手県などと連絡する。高速道路では、まず1986年(昭和61)全通の東北縦貫自動車道が県の北東部を通過した。1991年(平成3)に開通した東北横断自動車道釜石秋田線(とうほくおうだんじどうしゃどうかまいしあきたせん)は、秋田―横手間の暫定開通であったが、1997年に北上と連絡し、首都圏と秋田市が一本の高速道路で結ばれた(現在、北上ジャンクション以西は秋田自動車道として分離)。また、日本海東北自動車道・東北中央自動車道が一部開通、高速交通体系は整備されつつある。

 JRは、奥羽本線(おううほんせん)、羽越本線が二大動脈になっている。1997年に秋田新幹線が盛岡―秋田間に開通し、秋田―東京間を乗り換えなしに4時間弱で結んでいる。花輪、北上各線は奥羽山脈を横断して岩手県とつながり、ほかに日本海側を北上する五能(ごのう)線、男鹿(おが)半島へ伸びる男鹿線がある。また、第三セクター方式で運営される由利高原鉄道(旧、矢島線)、旧阿仁合(あにあい)・角館(かくのだて)両線が結合して角館・鷹巣(たかのす)間を走る秋田内陸縦貫鉄道が地域経済を支えている。

 海上交通港湾には秋田、船川の2重要港湾、能代、本荘、戸賀の3地方港湾があり、年間の海上取扱い貨物量の大半は秋田・船川港で扱っている。秋田港は近年、韓国の釜山(ふざん/プサン)との間に定期貨物便が就航し、太平洋側の県も利用するなど、有利な立地条件が注目されている。1981年(昭和56)に新たに雄和(ゆうわ)町(現、秋田市)に秋田空港が開港し、札幌(新千歳)、東京、名古屋(中部国際)、大阪(伊丹)、そして韓国(仁川国際)へ定期便がある。また、秋田県第二の空港として、大館能代空港(おおだてのしろくうこう)が1998年7月に開港した。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

社会・文化

教育・文化

1793年(寛政5)秋田藩は儒者山本北山(ほくざん)を迎えて藩校明道館(めいどうかん)(のち明徳館)を設立し、1795年には学館を併設した。また院内、湯沢などには郷校をつくり、藩校から教授を派遣した。同じころ由利郡の本荘藩に修身館、矢島藩に日新堂、亀田藩に長善館の藩校が設けられた。庶民教育の寺子屋は、1872年(明治5)の学制発布のとき約150あった。大学は国立の秋田大学と私立の秋田経済法科大学(2007年にノースアジア大学と改称)の2校であったが、1998年(平成10)に秋田県立大学、2004年に国際教養大学(公立)、2005年に秋田看護福祉大学(私立)が開学し、2013年現在、大学は7校、短大6校(公立2、私立4)、高専1校があり、専修学校・各種学校は35校ある。高校への進学率は全国平均を上回るが、市部で高く、山間部では低率である。

 県内の日刊紙で最大の発行部数をもつのは『秋田魁新報(あきたさきがけしんぽう)』で26万0876部(2007)。1874年(明治7)創刊の『遐邇(かじ)新聞』の流れをくみ、野党的立場にあり何度か発行停止の処分を受け、1889年『秋田魁新報』となった。ほかに能代市の『北羽新報』(1895年刊)、大館市『北鹿(ほくろく)新聞』(1918年刊)などがある。県内の全新聞配達数は約43万3400部で、1世帯当り1.04部であり、全国平均を少し上回る。放送局はNHK秋田放送局、ABS秋田放送、AKT秋田テレビ、AAB秋田朝日放送、エフエム秋田がある。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

生活文化

秋田藩佐竹氏は武よりも文に施政の重点を置いたため、学問や芸術の面で特色が現れた。1773年(安永2)に阿仁銅山の検分・指導のために招かれた平賀源内(ひらがげんない)が、角館給人(かくのだてきゅうにん)、小田野直武(おだのなおたけ)に洋画法を伝授したことに始まる秋田蘭画(らんが)は、藩主佐竹義敦(さたけよしあつ)や角館城代佐竹義躬(さたけよしみ)らの関心・保護を得て、安永(あんえい)・天明(てんめい)年間(1772~1789)にかけて展開された。直武は1773年から1779年まで江戸に滞在し、杉田玄白訳の『解体新書』木版付図の下絵を描いた。明治になってこの伝統は平福穂庵(ひらふくすいあん)・百穂(ひゃくすい)父子、寺崎広業(てらさきこうぎょう)らの日本画家に継承された。

 また秋田藩士の子弟であった国学者平田篤胤(ひらたあつたね)の影響で、秋田藩には国粋主義、神道的な尊攘(そんじょう)思想がはぐくまれた。幕末の戊辰(ぼしん)戦争には新政府側につき、奥羽諸藩と戦うこととなった。三河(愛知県)出身の紀行家菅江真澄(すがえますみ)は1801年(享和1)から1829年(文政12)に没するまで秋田領内で過ごし、藩内の地誌を記し、『雪の出羽路』『月の出羽路』『花の出羽路』の三部作を含む『真澄遊覧記』を残した。

 藩政時代の秋田は、鹿角郡は南部氏盛岡藩の所領、由利郡は亀田、本荘、矢島の小藩、そして県南の雄勝、平鹿、仙北の3郡と中央部の秋田市、河辺(かわべ)、南秋田の2郡は秋田藩(久保田藩)が支配し、この5藩が1871年(明治4)に一本化した。地形的にまとまった鹿角地方、由利地方はそれぞれ地域的に固まり、連帯感が強く、風俗や方言にも特色が残っている。農村の人たちの好んで用いる方言に「かたる」という動詞がある。「かたる」ことは仲間入りすることであり、孤独をいやす喜びであり、関心を同じくする者の話し合う集団をつくることでもある。たとえばプロレタリア文学の先駆をなした「種蒔く人(たねまくひと)」グループ、生活綴(つづ)り方運動の先駆けであった「北方教育」のグループもそうであった。また生活基盤を主として農業に求めてきた本県では、1878年以来1回の休会もなく100回以上も「種苗交換会」を行ってきている。イネ、野菜、葉タバコ、果樹、飼料作物、繭、クワ苗、樹木の苗、加工品などを持ち寄り、情報や種苗の交換により、営農と生活向上発展を期するこの農民の祭典も、風土に培われた文化活動の一つとして考えられる。衣服の材料は藩政末期から木綿(もめん)が用いられていたが、明治に入って急速に普及した。横手木綿は「田植もめん」「田植反物(たんもの)」として売り出された。飛白(かすり)の前垂れにメリンスの赤い紐(ひも)、「デタチ」とよばれる脚にぴったりあった紺のもんぺ、わざと飛白模様をはいだ短か着に、同じメリンスの赤い帯というおばこ風俗は、木綿全盛時代が生んだ秋田の服装である。

 食生活では長い冬に備える保存食が重要である。保存食は、漬物と塩漬けと鮨(すし)の三つに分けられる。漬物ではいぶしだいこん、塩漬けではワラビ、フキ、ボンナ、キノコなどをみそ汁用に塩蔵する。鮨はハタハタが圧倒的に多い。大館地方を中心とする名物「きりたんぽ」は、本来は残飯を処理するために考えられたものである。秋田特産の調味料のしょっつる(塩汁)は、ハタハタやイワシの処理方法の一つで、塩漬けにした魚からしみ出したうわ水を濾(こ)したものである。魚介や野菜を入れてしょっつる鍋(なべ)に仕立てる。また家屋もトタンとガラスの普及、材料のカヤの減少、かや葺(ぶ)き職人の不足から、かや葺き屋根がなくなり、また、ウマの飼養が減って曲屋(まがりや)がみられなくなってきた。

 秋田県の民俗的年中行事は、正月と盆を中心とするものがもっとも多い。鹿角市八幡平の大日堂舞楽は正月2日に四つの部落の能衆によって奉納される芸能で、岩手県平泉の毛越寺(もうつうじ)「延年(えんねん)」の影響を受けた中世寺院の芸能を伝えている。なまはげはかつては八郎潟の北部から、由利海岸、雄物川中流域に及ぶ地域で行われていた小正月の行事であったが、現在では12月31日に男鹿市で行われるものが有名である。漢の武帝が鬼を連れて男鹿にきたが、鬼は男鹿の真山、本山に移り住み、旧正月の晩だけは里に降り悪事の限りをしたという伝説にちなんだものである。なお、なまはげは「来訪神:仮面・仮装の神々」を構成する行事の一つ(「男鹿のナマハゲ」)として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録されている。8月3日から4日間、月遅れの七夕(たなばた)行事として行われるのが竿灯(かんとう)で、いまでは東北四大祭りの一つとして全国的に有名である。羽後(うご)町の「西馬音内盆踊(にしもないぼんおどり)」は8月16日から3日間行われる。ガンゲという黒覆面をつけて踊ることから「亡者踊り(もうじゃおどり)」ともよばれ、起源は不明であるが、精霊(しょうりょう)とともに踊るという供養踊りを伝承している。横手市大森町波宇志別神社(はうしわけじんじゃ)の「保呂羽山の霜月神楽(ほろわさんのしもつきかぐら)」は、11月7日に夜を徹して舞われる。湯立(ゆだて)神楽の系統を引く古風な神事芸である。以上はいずれも国の重要無形民俗文化財に指定されている。このほかにも2月15、16日に横手市で行われる「かまくら」や、江戸の歌舞伎囃子(かぶきばやし)の流れをくむ、鹿角市の花輪囃子、仙北市角館町の飾山囃子(おやまばやし)が広く知られている。花輪囃子(花輪祭の屋台行事)、飾山囃子(角館祭りのやま行事)に秋田市の土崎神明社祭の曳山(ひきやま)行事を加えた3行事(いずれも国指定重要無形民俗文化財)は「山・鉾(ほこ)・屋台行事」の名称でユネスコの無形文化遺産に登録されている。また、三種(みたね)町の森岳(もりたけ)歌舞伎、由利本荘(ゆりほんじょう)市の猿倉(さるくら)人形芝居、北秋田市阿仁地区の根子番楽(ねっこばんがく)などそれぞれ独得のものを伝えている。

 文化財のうち国や県の指定を受けているものは約530ある(2017)。国指定の重要文化財で有名なものに、江戸後期の豪農建築の旧奈良家住宅(秋田市)、飛騨工(ひだのたくみ)の手になる室町末期の入母屋造(いりもやづくり)の古四王神社本殿(こしおうじんじゃほんでん)(大仙市)、桃山文化の建築様式を伝える三輪神社本殿(羽後町)がある。大湯環状列石(鹿角市)は日本有数の縄文遺跡で、特別史跡。同じく縄文期の伊勢堂岱遺跡(いせどうたいいせき)(北秋田市)、岩井堂洞窟(湯沢市)、古代の秋田城跡、払田柵(ほったのさく)(大仙市)などは国の史跡である。仙北市田沢湖地区の玉川温泉の北投石(ほくとうせき)は枯渇した温泉の遺物で特別天然記念物。男鹿市のツバキは自生北限地帯として、北秋田市桃洞(とうどう)・佐渡のスギ原生林、仙北市角館町のシダレザクラなどとともに国の天然記念物に指定されている。

[宮崎禮次郎・柘植敏朗]

 なお大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡は、2021年(令和3)「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部 2022年1月21日]

伝説

三湖伝説の八郎太郎は、南祖坊(なんそぼう)に十和田湖を追われて八郎潟の主(ぬし)になったが、秋の彼岸から春の彼岸までの間、相思の田沢湖の主辰子(たつこ)のもとへ通った。それで留守の八郎潟は氷が張り、田沢湖は冬でも凍ることがないという。有名な男鹿のなまはげは、小正月に巡行する神々に扮(ふん)して家々を訪れる習俗で、信仰的要素が濃厚な伝説を伴う。この習俗はもと全国各地にあったが、いまは男鹿のほか鹿児島県種子島(たねがしま)、沖縄県八重山(やえやま)などに残るだけである。またぎは東北地方の猟師のことで、北秋田の阿仁はいまもなお狩猟の作法を厳重に守るまたぎの里で、またぎゆかりの伝説を伝える。またぎは「山達根本巻(やまだちこんぽんのまき)」という秘巻を伝承し、それによって全国の山々での狩猟を許されていた。南部氏盛岡領のまたぎが獲物を追って他領に深入りし、秘巻を所持していないためにとがめられて処刑された。その愛犬を祀(まつ)る老犬神社がある。六歌仙(ろっかせん)の一人、小野小町が晩年を送ったという地が雪深い湯沢市雄勝町にある。これはおそらく巡遊の語部(かたりべ)によって運ばれた伝説であろう。巨人伝説は太平山(たいへいざん)や森吉山、鳥海山にある。また鹿角の錦木(にしきぎ)や、雄勝の佐太子沼、山本のえせ子沼、北秋田のやす滝などの伝説もある。

[武田静澄]

『秋田県編『秋田県史』7巻・資料9巻(1960~1967)』『半田市太郎著『秋田県史』(1968・宝文館出版)』『今村義孝著『秋田県の歴史』(1969・山川出版社)』『秋田近代史研究会編『近代秋田の歴史と民衆』(1969)』『『角川日本地名大辞典 秋田県』(1980・角川書店)』『『秋田大百科事典』(1981・秋田魁新報社)』『『日本歴史地名大系5 秋田県の地名』(1988・平凡社)』『秋田県の歴史散歩編集委員会編『新版秋田県の歴史散歩』(1989・山川出版社)』『『秋田のくらしと祭り』(1990・秋田県教育庁)』『長谷川美恵子編著『秋田の食べ物ことわざ研究』(1994・学文社)』『『秋田の名勝・天然記念物』(2004・秋田文化出版)』


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