秋田(市)(読み)あきた

日本大百科全書(ニッポニカ) 「秋田(市)」の意味・わかりやすい解説

秋田(市)
あきた

秋田県の中西部に位置する県庁所在都市。西は日本海に面し、北と東は山地、丘陵地に囲まれている。北東部の太平(たいへい)山地は出羽(でわ)山地(丘陵)の一部で、山麓(さんろく)一帯はブナや秋田杉が生育する。太平山地に源を発する旭(あさひ)川、太平川と、市の南部から北西流してくる雄物(おもの)川によってつくられた秋田平野の中心部に秋田藩城下町を中心として発展した秋田市街地がある。日本海沿いには、山形県の庄内(しょうない)砂丘から連続する秋田砂丘が広がり、19世紀初期に藩士栗田定之丞(くりたさだのじょう)らによって松の砂防林が植林された。冬は北西の季節風が強く、降雪量は少ない。最少月降水量は2月に観測される。

 1889年(明治22)市制施行。当時の面積は6.87平方キロメートル、人口2万9279。1924年(大正13)牛島町、1926年川尻(かわしり)村、1933年(昭和8)旭川村、1941年土崎港町、新屋(あらや)町、寺内町、広山田村、1954年太平(たいへい)、外旭川(そとあさひかわ)、飯島、上新城(かみしんじょう)、下新城、浜田、豊岩(とよいわ)、仁井田(にいだ)、四ツ小屋(よつごや)、下北手、上北手、下浜の12村を編入。1997年(平成9)中核市に移行。2005年、河辺(かわべ)郡河辺町、雄和町(ゆうわまち)を編入。なお、この編入により、行政地名としての河辺郡はなくなった。

 JR奥羽本線(おうう)が通じ、羽越本線(うえつ)と男鹿(おが)線を分岐する。また、奥羽本線・田沢湖線経由で、ミニ新幹線の秋田新幹線が盛岡に連絡している。日本海に沿って国道7号が走り、ほかに13号(羽州(うしゅう)街道)、46号、101号、341号が通じる。また、東北横断自動車道釜石秋田線(秋田自動車道)が通じ、市内に数箇所のインターチェンジがある。秋田自動車道は、岩手県北上市で東北自動車道に接続、また市内の河辺ジャンクションで日本海東北自動車道に接続、秋田空港インターチェンジがある。その近く雄和椿川(つばきがわ)地区には1981年建設の秋田空港があり、中心市街地とはバスで連絡している。

 面積は906.07平方キロメートル、人口30万7672(2020)。

[柘植敏朗]

歴史

秋田の地名が歴史に登場するのは『日本書紀』が初めで、658年(斉明天皇4)に阿倍比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷(えみし)征伐をした際の齶田(あぎた)または飽田(あくた)がそれである。733年(天平5)に、庄内地方の最上(もがみ)川南岸から現在の高清水(たかしみず)丘陵に出羽柵(いではのき)が移され、律令国家の支配体制に属することになる。出羽柵はのちに国府が移され、秋田城となった(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)。安土(あづち)桃山時代には、安東実季(あんどうさねすえ)が湊(みなと)城を拠点にこの地を支配し、のちに秋田氏を名のった。その後、関ヶ原の戦いで、1602年(慶長7)に佐竹義宣(さたけよしのぶ)が常陸(ひたち)から出羽に転封され湊城に入り、秋田氏はそれに伴って常陸の宍戸(ししど)に移った。義宣は、翌1603年から窪田(のちに久保田)に築城を開始し、旧秋田市街の輪郭ができたのは1633年(寛永10)といわれる。城下町は、城下を流れる旭川を堀として利用し、旭川は堀川ともよばれた。川の西側(右岸)を外(と)町(町人町)、東側(左岸)を内(うち)町(侍町)とし、さらに外町の西に寺町をつくった。外町から内町に通じる道路や橋は軍事的配慮から一直線にならぬよう互い違いに建設され、羽州、酒田両街道も城下の入口で屈曲させ、防御を第一としている。堀川の水は貴重な水資源であると同時に、雄物川とも通じるため、上方への重要な流通経路としても機能した。久保田は、以後明治に至るまで秋田藩佐竹氏の城下として繁栄し、城跡は千秋(せんしゅう)公園とよばれ市民の憩いの場所になっている。

[柘植敏朗]

産業

秋田市は県内第一の商圏をもち、秋田駅西側(駅前地区)はいち早く発展した地域であるが、衰退傾向にあり、空き地や空き店舗が目だつ。再開発が叫ばれているものの、依然計画の域を脱していない。かわって、駅東側は急速に宅地化が進み、商業も充実してきた。郊外には巨大なショッピングセンターも建設され、消費者は駅前地区から流出している。

 農業は宅地化の影響もあり、年々減少しているが、米作を主とし「あきたこまち」発祥の地として知られる。ほかに野菜や果樹・花卉(かき)の栽培、酪農・畜産が盛ん。食品加工・販売も行われている。近年は、多様な農業形態・作目による複合経営、都市近郊型農業を推進している。林業では、太平山地からは、原木の切り出しや製材が行われる。

 工業は1965年(昭和40)に新産業都市の指定を受けてから港湾、道路、鉄道などの社会資本の整備が進み、臨海地区を中心に工業団地が立地し、金属加工業、製紙工業、木材加工業などの大規模工場が操業している。また、藩政期以来の伝統をもつ醸造業も盛んで、生産される清酒は灘、伏見(ふしみ)に匹敵する美酒として全国的な知名度をもつ。全国一の産油地帯を形成した秋田油田は、1900年代に入って、発展をみるが、1960年以降急速に衰退した。1981年に秋田空港が開港してからは、臨空港型の秋田テクノポリス(1984年承認)の建設が進められ、電子・電気機械の製造の伸びが著しかった。国道7・13号沿線もシリコンロードとよばれるまでになっていた。

 秋田市の特産品は、日本海の砂地に生えるハマナスの根皮で絹糸を染めて織った秋田八丈、院内銀山などを背景とした銀線細工、土人形の八橋人形(やばせにんぎょう)などがある。

[柘植敏朗]

文化

国の重要無形民俗文化財に指定されている竿灯祭り(かんとうまつり)は東北四大祭りの一つに数えられるが、元来は祖先の霊をなぐさめる盆行事であった。宝暦年間(1751~1764)に精霊を迎えるために行った風習が始まりとされている。秋田万歳も県指定無形民俗文化財で、尾張(おわり)万歳の流れをくむとされ、ユーモアや風刺を織り交ぜて秋田弁で行うのが特徴で、明治の最盛期には市内に15組の万歳師がいた。国史跡の秋田城跡は奈良・平安時代の古代城柵(出羽柵)遺跡で、当時の日本海側を代表する地方官庁として機能した。現在も発掘調査が続けられている。同じく国史跡として平田篤胤(あつたね)墓がある。平田篤胤は江戸時代末期を代表する国学者で、本居宣長(もとおりのりなが)の古道説を継承し、復古神道の鼓吹に尽力した人物である。国指定重要文化財の旧奈良家住宅は藩政期の豪農の住宅で、日本海沿岸北部に特徴的な、二つの突出部をもつ両中門造とよばれる。ほかに、建築では秋田藩主佐竹家の菩提寺である天徳寺(本堂、書院、山門、総門)、佐竹家霊屋(たまや)、嵯峨(さが)家住宅、旧黒澤家住宅、三浦家住宅、藤倉水源地水道施設、絵画では小田野直武筆『絹本着色(けんぽんちゃくしょく)不忍池(しのばずのいけ)図』(秋田県立博物館蔵)、彫刻では銅造阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)(全良(ぜんりょう)寺蔵)が重要文化財、史跡として地蔵田遺跡(じぞうでんいせき)、天然記念物として柱状節理の筑紫森岩脈(つくしもりがんみゃく)、重要無形民俗文化財として「土崎神明社祭の曳山行事(つちざきしんめいしゃまつりのひきやまぎょうじ)」(ユネスコの無形文化遺産に登録)など、国指定の文化財が多数ある。秋田市立赤れんが郷土館は、国の重要文化財である旧秋田銀行本店本館の赤れんが造りの建物を利用し、修復された建築意匠・内装とともに郷土の伝統工芸品などを展示。

 太平山山頂には、役小角(えんのおづぬ)による創建と伝わる太平山三吉神社が鎮座。雄和女米木(めめき)地区には俳人の石井露月(ろげつ)の生家がある。

 また、日本で最初のプロレタリア文学雑誌『種蒔く人(たねまくひと)』は土崎地区で創刊された。文化施設としては秋田大学国際資源学部附属鉱業博物館、ノースアジア大学雪国民俗館、秋田県立美術館、市立千秋美術館などがある。ほかに古四王(こしおう)神社、太平山県立自然公園、岩見峡(岨谷(そや)峡)、三内峡などの景勝地、秋田県立博物館、秋田市大森山動物園、岩見ダム、健康増進交流センター(ユフォーレ)、県立中央公園、国際教養大学、秋田公立美術大学などがある。

[柘植敏朗]

『読売新聞社秋田支局編『秋田の歴史』(1965・三浦書店)』『『目で見る秋田百年』(1968・秋田魁新報社)』『秋田市大事典編集委員会『秋田市大事典』(1986・国書刊行会)』『『秋田市史研究第3号』(1994・秋田市)』『『秋田市史』全17巻(1996~2006・秋田市)』


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