福宝堂(読み)ふくほうどう

世界大百科事典(旧版)内の福宝堂の言及

【日本映画】より

…昨日まで出来た常設館の数は東京市内だけでも七十ヶ所以上に出で,興行資金に数十万円を運転してゐるとの事だ〉と書き,8月9日付の続稿では〈恁くも盛に流行して居る活動写真の材料を差し替引き替供給してゐる〉のは〈全国でか三人〉だとして,横田商会の横田永之助(1872‐1943),Mパテー商会の梅屋庄吉,吉沢商店の河浦謙一の名を挙げている。翌10年にはこれに福宝堂が加わって,4社による映画の輸入・製作・配給がいよいよ盛んになった。各社とも撮影所をもったため,風景や戦争や白瀬中尉の南極探検などの実写作品のほかに,劇映画が多くつくられるようになり,それらも歌舞伎劇や新派劇をほとんどそのまま実写したようなものではあったが,弁士の説明によるドラマ性の盛上げもあって,多大の観客を集め,そのなかから最初のスター尾上松之助を生み出すとともに,日本映画の主流は実写作品から劇映画へと移っていった。…

※「福宝堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」