神戸新田(読み)かんどしんでん

改訂新版 世界大百科事典 「神戸新田」の意味・わかりやすい解説

神戸新田 (かんどしんでん)

江戸中期,木曾川下流の葦生地に開かれた町人請負新田新田名は開発者の姓を冠したもの。大宝(おおだから)新田の前面に広がるところから大宝前新田ともいう。名古屋の材木商神戸分左衛門が蓄積した資金の投資対象として宝永年間新田開発を思いつく。彼は新田投資をすると金利10%として10年目に元利を償却でき,それは当時同家が行っていた名古屋藩重臣たちへの家中貸より,はるかに有利であると試算している。1707年(宝永4)認可。そのときの条件は,(1)広さ125町歩,ほかに15町余,(2)敷金7811両2分,(3)鍬下年季10ヵ年,(4)年貢は,新田出来11ヵ年目に検地を受け,田畑10町歩を100石と定め5ッの定免とする,等々であった。工事は大地震で地盤が下がったり(1707),大風高潮で堤が崩れたり(1708),たびたびの事故を伴ったが,09年予定のうち25町歩を切り捨てて全100町歩が,総経費2万7600両をかけてできあがった。現在,愛知県弥富市の旧十四山(じゆうしやま)村に属している。
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世界大百科事典(旧版)内の神戸新田の言及

【干拓】より

…この築造に加わった移住希望の農民は,一挙に多大の損失を被った。尾張海部郡の地先に1707年(宝永4)に開かれた神戸(かんど)新田も,1722年(享保7)に半ば以上が地震と高潮のためいったん海底に没し,ようやく100年近く後の1801年(享和1)に,かつての神戸新田の海没部分をも併せ,神戸新田の地先に,同じ神戸家による服岡新田が開かれるまでは海没のままであった。海面干拓の代表的地域は西から有明海沿岸の肥前・筑後・肥後,備前の児島湾岸(戦後の干拓により元の児島湾はごく一部の淡水面を残すのみとなった),大阪湾岸,木曾川下流の尾張・伊勢の北部などに著しく,内陸水面では北上川の中・下流部(宮城県),越後平野中の潟の干拓などが数えられる。…

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