磯長墓(読み)しながのはか

世界大百科事典(旧版)内の磯長墓の言及

【磯長】より

…古代において科長郷の名がみえ,河内国石川郡に属した。この付近には敏達・用明・推古・孝徳の4天皇の陵墓をはじめ,聖徳太子の磯長墓(叡福寺)などが設けられた。また《延喜式》にみえる科長神社もこの地にまつられた。…

【聖徳太子】より

…917年(延喜17)成立の《聖徳太子伝暦》に至って,太子の伝説化はほぼ完成されたといってよく,以後平安時代から鎌倉時代にかけて,太子信仰が広く普及していった。太子は敏達・推古両天皇の女の菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女,膳加多夫古(かしわでのかたぶこ)の女の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ),蘇我馬子の女の刀自古郎女(とじこのいらつめ),尾治(おわり)王の女の猪名部橘(いなべのたちばな)女王などを妃として,山背大兄(やましろのおおえ)王(刀自古郎女の所生)をはじめ数多くの子女を生んだが,622年2月22日に斑鳩宮で病死し,河内の磯長墓(しながのはか)(いま大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。【関 晃】
[聖徳太子の伝承]
 《日本書紀》がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は,奈良時代には法隆寺や四天王寺でまつられていた。…

【太子[町]】より

…古代に難波と飛鳥を結ぶ官道として開かれた竹内(たけのうち)街道に沿う。河内飛鳥の一角を占め,王陵の谷といわれるほど古墳が多く,敏達,用明,推古,孝徳の天皇陵や聖徳太子の磯長(しなが)墓があり,近くには〈上の太子〉と呼ばれる叡福寺がある。竹内街道は江戸時代に参勤交代路として重視されたが,明治以後は衰えた。…

※「磯長墓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」