デジタル大辞泉
「磐余」の意味・読み・例文・類語
いわれ〔いはれ〕【磐余】
奈良県桜井市南部の古地名。5、6世紀ごろの大和国家の政治の中心地。[歌枕]
「つのさはふ―も過ぎず泊瀬山何時かも越えむ夜はふけにつつ」〈万・二八二〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
磐余 (いわれ)
奈良県桜井市南西部の池の内,橋本,阿倍から橿原市東池尻町を含む同市南東部にかけての地名。石村,石寸とも表す。《日本書紀》には,神武東征神話の中に磐余邑の起源説話がみえるほか,5~6世紀の天皇の宮号として磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや),磐余甕栗宮(みかくりのみや),磐余玉穂宮(たまほのみや),磐余池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)がみられる。《万葉集》の大津皇子の歌などにも詠まれた磐余池は,いまもその痕跡をとどめるが,用明天皇の磐余池辺双槻宮や磐余池上陵(いけのえのみささぎ)はこの池の近くに営まれた。ヤマト王権の中心は一時期この地にあったとみられる。
執筆者:舟尾 好正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
磐余【いわれ】
《日本書紀》《万葉集》に見える地名。石村とも。奈良県桜井市の南西部から橿原(かしはら)市の南東部にかけての地域。《日本書紀》のいわゆる神武東征神話の中に磐余邑の地名起源説話がある。神武天皇の和風諡号(しごう)はカムヤマトイワレビコ。同書には履中天皇磐余稚桜(わかさくら)宮,清寧(せいねい)天皇磐余甕栗(みかぐり)宮,継体天皇磐余玉穂宮,用明天皇磐余池辺双槻(いけべなみつき)宮などがみえる。《万葉集》の大津皇子の歌に磐余池が詠まれる。磐余野と共にのちに歌枕になる。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
磐余
いわれ
奈良県中部、桜井市阿部地区付近の古地名。天香久山(あめのかぐやま)北東麓(ほくとうろく)にあたり、大和(やまと)朝廷の政治的要地であった。『日本書紀』によれば、履中(りちゅう)天皇の磐余稚桜宮(わかさくらのみや)のほか、清寧(せいねい)天皇、継体(けいたい)天皇などの皇居があったといわれる。大津皇子(おおつのみこ)の「百(もも)伝ふ磐余の池に鳴く鴨(かも)を今日(きょう)のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ」(『万葉集』巻3)や『日本書紀』に記された磐余池は、桜井市大字池之内から橿原(かしはら)市東池尻町付近にあったと推定される。
[菊地一郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
磐余
いわれ
奈良県桜井市阿部付近の古地名。履中,清寧,継体,用明天皇らの皇居のあった地域で,5~6世紀頃の要地。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の磐余の言及
【大和国】より
…ヤマトの範囲は初瀬川の流域で,三輪山と香具山を結んでできるデルタ地帯(第一次ヤマト)である。シキ(磯城)やイハレ([磐余](いわれ))地域が第一次ヤマトに相当する。香久山は代々の大王の国見儀礼の舞台であるとともに,その土が呪力あるものとされ,神聖視されていた。…
※「磐余」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」