日本大百科全書(ニッポニカ) 「磐井の乱」の意味・わかりやすい解説
磐井の乱
いわいのらん
6世紀前半に起こった筑紫君(つくしのきみ)(国造(くにのみやつこ))の反乱。『日本書紀』継体(けいたい)天皇21年6月条によると、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)は6万の軍隊を率いて任那(みまな)に赴き、新羅(しらぎ)に攻略されていた南加羅(みなみから)と㖨己呑(とくことん)を再興して任那にあわせようとした。新羅はひそかに反逆の志ある筑紫国造磐井に賄賂(わいろ)を贈り、毛野臣の軍を防ぐよう勧誘した。磐井は、火(肥)(ひ)、豊(とよ)の両国に勢力を張り、毛野臣の軍を遮った。8月になって、天皇は、大連(おおむらじ)物部麁鹿火(もののべのあらかび)に磐井を討つように命じ、翌22年11月に大将軍麁鹿火は磐井と筑紫の御井(みい)郡(福岡県三井郡)で交戦しこれを斬(き)った。12月、筑紫君葛子(くずこ)は父に連座することを恐れて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上して死罪を贖(あがな)ったとある。
一方、『古事記』では、継体天皇の御世、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わなかったので、物部荒甲(あらかい)大連と大伴金村(おおとものかなむら)連の2人を遣わしてこれを殺した、と簡単に記述されている。『筑後国風土記(ちくごのくにふどき)』逸文(『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』所引)も『古事記』の理由と変わらないが、在地に密着した別伝を載せている。それによると、上妻県(かみつやめのあがた)(福岡県八女(やめ)郡の北東部)の南2里に筑紫君磐井の墓墳があり、それは磐井が生前から造営したもので周囲や別区に石人・石馬、石盾などの石造物を配置してあるという。また、磐井は官軍に勝てそうもないことを知って、ひとり、豊前(ぶぜん)国上膳県(かみつけのあがた)(福岡県筑上(ちくじょう)郡の南部)に遁走(とんそう)して死んだこと、官軍は磐井を逃がして怒りやまず、磐井の墓の石人・石馬を破壊して鬱憤(うっぷん)を晴らしたと伝えている。
磐井の反乱が『書紀』のいうように1年半に及ぶ大規模なものであったのか、またその反乱の原因に新羅がかかわっていたのかについては、『書紀』の記事には『百済本紀(くだらほんぎ)』によって説明した部分、漢文的修飾を受けている部分が多く、史実は『古事記』の記事以上を出るものでないとする見解もある。ただ、考古学の方面から、岩戸山(いわとやま)古墳(福岡県八女市吉田)が『筑後国風土記』の伝える磐井の墓のようすと適合することが証明され、しかもこの古墳を特徴づける石人・石馬の分布が、筑紫のみならず磐井が勢力基盤とした火・豊国にも及んでいることなど、『書紀』の一部の信憑(しんぴょう)性を裏付けるものとなっている。この乱の意義については、従来、大和(やまと)朝廷の朝鮮出兵の負担に耐えかねた地方豪族(国造)の反乱というのが通説であったが、近時、この乱は、畿内(きない)王権とそれとは相対的に自立性をもった筑紫勢力(北部九州勢力)との外交権掌握をめぐる対立であり、筑紫勢力は畿内王権を離れて独自の「政権」形成への道を模索していたのだとする見解が有力になりつつある。この見解によれば、磐井の乱後、初めて九州に大和王権の直接支配としての性格をもつ屯倉が設定され、筑紫勢力は、中央王権の一地方(国造)として秩序づけられることになる。
[小林敏男]
『林屋辰三郎著『古代国家の解体』(1955・東京大学出版会)』▽『坂本太郎著『日本古代史の基礎研究 上』(1964・東京大学出版会)』▽『森貞次郎著『岩戸山古墳』(1970・中央公論美術出版)』▽『山尾幸久著『日本国家の形成』(岩波新書)』