硫黄島(いおうとう)(読み)いおうとう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「硫黄島(いおうとう)」の意味・わかりやすい解説

硫黄島(いおうとう)
いおうとう

東京都小笠原諸島(おがさわらしょとう)の南西火山列島硫黄列島)の中央にある粗面安山岩の活火山島。中硫黄島ともいう。直径10キロメートルの海底カルデラのカルデラ縁上に形成された火山。小笠原支庁小笠原村に属す。東京の南約1250キロメートルに位置し、周囲約22キロメートル、面積23.16平方キロメートル。北東から南西に伸長した段丘が発達し、中央部は平坦(へいたん)であるが、中北部に元山(約115メートル)、南西端に摺鉢山(すりばちやま)(169メートル)がある。

 1889年(明治22)以降小規模な水蒸気爆発が繰り返されている。1968年(昭和43)以来、防災科学技術研究所、気象庁、国土地理院などによって火山観測が続けられている。島内各地に硫気、地熱地域が分布。また、ほぼ全島にわたり、200年以上にわたって地盤隆起し続けており、1981~1984年や2001~2002年(平成13~14)さらには2011年1月末~2012年5月には最大1メートルを超える隆起が観測され、隆起がみられていた時期や後に小規模の水蒸気爆発が発生した。気候は亜熱帯気候帯に属するが、活火山島のため植物相は貧弱である。

 16~17世紀以来、欧米人によって存在が認められていたが、絶海小島ということから、長く無住・無主の地として放置されていた。1887年(明治20)ごろから、日本人で漁労や硫黄採取に従事する者があって、1891年9月の勅令第190号をもって硫黄列島とし、小笠原の所轄に編入した。明治末期ごろからサトウキビの栽培に成功し、以来それが最大の産業となった。その後、糖価の下落死活問題にまで追い込まれたが、昭和初期コカノキの栽培に成功して、その特異な存在が知られるようになった。そのほかデリス球根、バナナその他の熱帯性果実、野菜なども栽培していたが、市場遠隔のため振るわなかった。住民はすべて内地からの移住者で、1944年(昭和19)には1164人を数えたが、第二次世界大戦のため、同年全員内地に引き揚げた。1945年アメリカ軍が上陸、激戦場となり(硫黄島の戦い)、その陥落後は日本本土攻撃の基地となった。

 第二次世界大戦後、アメリカの施政権下にあったが、1968年(昭和43)小笠原諸島の日本復帰とともに、東京都小笠原支庁に所属した。なお、硫黄島はアメリカ軍により「いおうじま」とよばれ、戦後はこの呼び方が定着、1982年以降は国土地理院もこの呼称を使用していた。しかし、旧島民は戦前より「いおうとう」とよんでいたことから、小笠原村は国土地理院に変更を要望。2007年(平成19)6月、国土地理院と海上保安庁海洋情報部で構成する「地名等の統一に関する連絡協議会」の決定により、旧称に復した。現在、硫黄島には、海上自衛隊硫黄島航空基地隊が置かれている。電波灯台のロラン局の維持にあたっていたアメリカの沿岸警備隊は1993年(平成5)撤退し、かわって、同年からアメリカの空母艦載機による夜間発着訓練(NLP:Night Landing Practice)が行われるようになった。小笠原国立公園の中にあるが、除外されている。人口402(2010)。

[菊池万雄・諏訪 彰・中田節也]

『東京都島嶼町村一部事務組合編・刊『伊豆諸島・小笠原諸島民俗誌』(1993)』『森田敏隆写真『日本の大自然28 小笠原国立公園』(1995・毎日新聞社)』『清水善和著『自然史の窓 小笠原自然年代記』(1998・岩波書店)』『青山潤写真・文『小笠原 緑の島の進化論』(1998・白水社)』

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