石部村(読み)いしべむら

日本歴史地名大系 「石部村」の解説

石部村
いしべむら

[現在地名]石部町石部

現町域の北部に位置し、北を野洲やす川が流れる。西は栗太くりた郡境。主集落は野洲川に並行する東海道に沿って両側町を形成し、江戸時代は石部宿が置かれた。中世は檜物ひもの庄に属し、のち石部三郷として推移。当地の土豪として青木・内貴・服部氏らが知られる。永禄元年(一五五八)から同八年にかけて、石部三郷と檜物下庄との間で激しい用水争論があった。同八年六月一九日の石部三郷起請文(山中文書)は、この紛争に出された裁定である(甲賀郡の→檜物庄。元亀元年(一五七〇)五月、石部城に拠った六角承禎・義治父子のもとには約二万の大軍が集結し(「言継卿記」同月二二日条)、織田信長軍に対抗した。天正元年(一五七三)にも六角父子は石部城に籠城したが(「武徳編年集成」など)、翌二年四月信長軍の包囲を受けて落城した(「古今消息集」など)。石部城は現善隆ぜんりゆう寺にあたるとされ、土豪青木氏が拠ったという。天正二年六角氏敗走後も土豪の勢力は残り、同一二年小牧・長久手の戦にのぞんだ徳川家康は、青木一族の石部右馬丞らの石部一揆に対し忠節を命じている(譜牒余録)

天正一一年八月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に「いしべ」高二千五八石とあるが、これは東寺ひがしてら・西寺を含むものであろう。同一九年四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)によれば石部一千六四〇石余が家康の在京賄料に充てられ、代官は吉川半兵衛であった(新修石部町史)

石部村
いしぶむら

[現在地名]松崎町石部

岩地いわち村の南西に位置する。東の日和ひより山と西のくろ崎の間に小湾を形成し、駿河湾に面する。「和名抄」の古代那賀なか郡石火郷の遺称地。鎌倉時代初期の歌集「閑谷集」に収める歌に「いしふ」が詠まれ、詞書に「にしうらにいしふといふところ」とみえるので当地のことと思われ、「あまのすみか」が磯近くにあったと記される。建暦元年(一二一一)七月一八日北条時政と考えられる人物が「石火宮」の供菜料に充てるため、松崎下まつざきしも(現伊那下神社)の鰹船の課役を免除しており(「松崎下宮鰹船所役免除状」伊那下神社文書)、石火宮は現在の伊志夫いしぶ神社にあたると思われる。

石部村
せきべむら

[現在地名]静岡市石部・用宗もちむね一丁目・同五丁目・用宗小石町もちむねこいしちよう

用宗村の南西に位置し、東は駿河湾に面する。村名は当村から南に続く益津ましづ小浜おばま村・当目とうめ(現焼津市)に至る間にある大崩おおくずれ海岸に奇石が多くあることにちなむといわれ、古くはイシムレの意味としてイシベとよんでいたという(修訂駿河国新風土記)。セキベは字音によるとされるが、関部とも書く(元禄一六年「駿府巡見帳」静岡市立図書館蔵)。領主は享保一五年(一七三〇)まで大和田おおわだ新田と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報