石山戦争(読み)いしやませんそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石山戦争」の意味・わかりやすい解説

石山戦争
いしやませんそう

1570年(元亀1)から1580年(天正8)にかけ、織田信長と戦った一連の一向一揆(いっこういっき)の総称。石山本願寺(ほんがんじ)近辺を主戦場とする数次の石山合戦と、本願寺の意を受けて戦った諸国の一向一揆とからなる。

 畿内(きない)制圧を進める信長は、本願寺顕如(けんにょ)に石山からの退去を要求した。これを直接の契機として顕如は、1570年ついに諸国の一向衆に決起を命じた。願証寺を中心とする伊勢長島(いせながしま)一揆は、信長の膝下(しっか)で74年まで戦い続けた。南近江(おうみ)の金森(かながもり)一揆は六角(ろっかく)勢と、また、近江湖北十ヶ寺一揆や湖西の慈敬(じきょう)寺を中心とする一揆は、浅井勢や朝倉勢とそれぞれ連携しながら、3~4年間戦い続けた。越前(えちぜん)一揆は74年に蜂起(ほうき)し、加賀(かが)勢が主体となり、朝倉氏滅亡後に駐留していた信長勢を一時放逐したが、翌年全滅。これを最後に諸国の組織的な大規模な一揆は終息した。

 1570年代前半は、石山近辺での断続的戦闘より、諸国の一揆のほうが活動的であった。信長も膝下の一揆鎮定を優先させた。顕如は、各地の一揆に期待する一方、反信長方戦国大名の力を借りて、信長打倒を図ろうと試みた。そのため石山戦争は、大名権力の覇権をめぐる戦いと混然化していった。戦国大名にとっては、一向一揆に集約される民衆の抵抗を鎮圧することが究極の課題であったが、これらの力をどう利用するかは、戦国争乱を勝ち抜く過程においてさまざまであった。たとえば、越中(えっちゅう)一揆の上杉勢への攻撃は、上杉勢と対立する武田勢を有利な立場に導くものであると同時に、顕如にとっても、武田勢が、上杉勢の攻撃を憂うることなく、信長の支配地に侵攻することを期待してのものであった。そしてこのことは、石山に対する、あるいは諸国の一揆に対する直接的圧力の減少を意味するのであった。

 1570年代後半、石山は諸国の一揆を鎮圧した信長の最大の攻撃目標となった。本願寺の主力は紀伊雑賀(さいか)衆で、毛利(もうり)勢の援助を受けて戦い続けたが、しだいに敗退。長男教如(きょうにょ)による継戦の主張もあったが、顕如は1580年ついに朝廷の斡旋(あっせん)を受けて降服した。11年間にわたる石山戦争の終結は、1世紀に及ぶ一向一揆の最後ともなった。全国の多数の寺院に、石山戦争の際、懇志を送り、あるいは自身が馳(は)せ参じたことを記す由緒書(ゆいしょがき)が残されている。そのことは、無名の個人が自らの意志で参加した初めての戦いでもあったことを告げている。

[金龍 静]

『谷下一夢著『増補真宗史の諸研究』(1977・同朋舎出版)』『藤木久志著『織田・豊臣政権』(『日本の歴史 15』1975・小学館)』

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