石合戦(読み)いしがっせん

精選版 日本国語大辞典 「石合戦」の意味・読み・例文・類語

いし‐がっせん【石合戦】

〘名〙 二手に分かれ、石を投げ合って戦うこと。祭礼、年中行事、または子供の遊びとしておこなわれた。徳川家康幼時、安倍川原で見物し、勝敗を予言した話はよく知られている。印地打(いんじうち)
※尋常小学読本(1887)〈文部省〉七「ある年の端午の節句に、僕と共に、安倍河原に遊びて、子供の石合戦を見たるに」

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デジタル大辞泉 「石合戦」の意味・読み・例文・類語

いし‐がっせん【石合戦】

二手に分かれ、石を投げ合って戦うこと。祭礼・年中行事や子供の遊びとして行われた。石打ち。→印地いんじ

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百科事典マイペディア 「石合戦」の意味・わかりやすい解説

石合戦【いしがっせん】

大勢の人びとが2組に分かれ,集団で石を投げて行う模擬的な戦闘。河原や町中などで行われ,その多くは宗教的な意味をもった年中行事としての習俗であった。石合戦の起源については,民俗学者の折口信夫が出した〈日本在来の習俗〉説と,考古学や民族学の研究から出された,日本周辺,特に中国朝鮮半島から伝わったとする〈外来起源〉説があるが,現在では後者の方が有力な説とされている。 日本における石合戦は,すでに11世紀から文書や記録の中に現れ,古くは〈いんぢ(印地)〉とも呼ばれていた。平安後期以降,正月や端午の節句の年中行事として行われ,特に平安末から鎌倉期にかけての石合戦は,神仏の意思と関わる宗教的な意味をもつものとして盛んに行われた。石合戦は,怪我(けが)人や死者が頻繁に出る危険性や公秩序の破壊といった理由から,時の政府や寺社からもその禁止令が何度となく出されたが,室町期においても庶民の血を湧き立たせるものとして続けられていた。 こうした古くからの石合戦の習俗がその規模を縮小し,数を減らしていくようになるのは,世の中が混乱から安定へと向かい始める16世紀末ころからである。そして,そのような流れの中で,太平の世となった徳川第3代将軍家光の時代に全国規模の〈御禁制〉が出されたことにより,いよいよその数を減らし,その主体も大人から子供へと変わっていった。石合戦は,明治期になってもなお各地で散在していたが,第2次世界大戦後は鹿児島の一部地域を除いてほぼ姿を消していった。 世界的にみると,石合戦は東アジア東南アジアでよく見られ,この地域の石合戦は日本の石合戦とも関係が深く,その原義や系譜に関して多くのことを示唆しているといわれている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石合戦」の意味・わかりやすい解説

石合戦
いしがっせん

石を投げ合って勝敗を競う遊戯。昔は本当の戦争にも石を用いた。印地打(いんじう)ちともいい、昔は石合戦を得意とした軍勢を印地とよんだといわれる(『平家物語』『義経記(ぎけいき)』)。印地の語原は「石打」のつづまったものであろうといわれている。家康の幼時、従者の背で印地打ちを見物し、戦況をみて勝敗を予言したという逸話はよく知られている。『慶長見聞集』には下総(しもうさ)国(千葉県)と武蔵(むさし)国(東京都)の子供が隅田(すみだ)川を挟んで石合戦をしたことがみえるが、正月15日とか五月節供の行事として民間で盛んに行われている。参加者は主として子供であったと思うが、祭りの日に行う所では、年占(としうら)として、勝てば豊作に恵まれると信じていた所もあった。激しい行事なので寛永(かんえい)(1624~1644)のころ以後たびたび禁令が出たが、男児の五月節供の行事としてなかなか後を絶たなかったようである。石がなるべく遠くに飛ぶように、竹を割って挟んで投げ飛ばしたり、縄を編んで小形の「もっこ」をつくり石を入れておいて振り回したり、技法もくふうされた。長野県の北部地方や秋田県の仙北市角館(かくのだて)付近で、ズンベ、ズンバイというのがこれであった。中国にも祖廟(そびょう)の祭りに際し、村対抗の石合戦があって、年の豊凶の占いとなっていた。

[丸山久子]

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デジタル大辞泉プラス 「石合戦」の解説

石合戦

1955年公開の日本映画。監督:若杉光夫、原作:上司小剣、脚色:松丸青史ほか、撮影:仲沢半次郎。出演:小沢栄、山田五十鈴、浜田光曠、内藤武敏、高田敏江、小夜福子、徳永街子ほか。第6回ブルーリボン賞助演女優賞(山田五十鈴)受賞。

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世界大百科事典(旧版)内の石合戦の言及

【印地】より

…弓矢と石弾は競合関係にあるといわれており,この武器としての石打も弥生文化とともに西日本にもたらされたのであろう。 古墳時代,律令時代には飛礫の実態は不明であるが,881年(元慶5)京の一条で児童数百が戦闘のまねをしたのは(《日本三代実録》),おそらく石合戦で,10世紀以後,記録・文書に頻出する。1012年(長和1)叡山に上る藤原道長の一行に飛礫を打った山僧の行為が〈三宝の所為〉といわれ(《小右記》),1231年(寛喜3)の大飢饉のさい,飛礫を禁じたため飢饉となったという〈京中雑人〉の声に押され,北条泰時がそれを〈制の限りに非ず〉としたように,平安後期~鎌倉期の飛礫は神仏などの意志によると考えられていた。…

※「石合戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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