石光真清(読み)イシミツマキヨ

デジタル大辞泉 「石光真清」の意味・読み・例文・類語

いしみつ‐まきよ【石光真清】

[1868~1942]陸軍軍人熊本の生まれ。日清戦争後からシベリア出兵時期シベリア満州諜報活動従事自伝城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」の四部作は、子の真人によってまとめられ、毎日出版文化賞を受賞

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改訂新版 世界大百科事典 「石光真清」の意味・わかりやすい解説

石光真清 (いしみつまきよ)
生没年:1868-1942(明治1-昭和17)

陸軍軍人,軍事諜報員。熊本城下に生まれ,神風連の乱,西南の役での敗残の美質の人々,戦火に翻弄され苦しむ人々を身近に目撃。1883年陸軍幼年学校に入り橘周太日露戦争時の〈軍神〉)に兄事。89年士官学校卒。近衛師団勤務後,日清戦争で中尉として台湾出征。96年憂国の念からロシア研究に志し,参謀本部次長田村怡与造の了解のもと99年休職してシベリアへ私費渡航。ブラゴベシチェンスクで語学研修を名目にロシア軍人の家庭などに寄寓,馬賊の妻となっている日本人娼婦らと交友しつつ義和団動乱下で諜報活動。さらに任務のため,軍籍を離脱してハルビンで苦力(クーリー),洗濯夫,ロシア軍の御用写真館などを営み,馬賊の副頭目にまでなってシベリアの広野を駆けめぐる。日露開戦で召還され,第2軍司令部付副官として出征。少佐に進んだが戦後は軍に戻るべき場所なく,一時世田谷村三等郵便局長として平穏な生活に入る。1917年関東都督府から再び諜報勤務命令をうけ,ロシア革命の動乱の渦中に飛びこむが,その命がけの体験にもとづく献策も,シベリア出兵軍司令官の大井成元中将に〈君は一体誰のために働いとるんだ,ロシアのためか〉と一蹴される。失意の帰国後は貧苦と念仏三昧の晩年だった。陸軍中将石光真臣(1870-1937)はその弟。自伝(遺稿)四部作(《城下の人》《曠野の花》《望郷の歌》《誰のために》)は,明治国家の裏面を数奇に生き抜いた著者が,類のない無私の眼で時代を記録した傑作である。
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百科事典マイペディア 「石光真清」の意味・わかりやすい解説

石光真清【いしみつまきよ】

陸軍軍人,諜報員。熊本県生れ。1889年陸軍士官学校卒。日清戦争で中尉として台湾に出征。ロシア研究と情報収集のため,1899年シベリアに渡って諜報活動,ハルビンでは写真館を営むなどして活動を継続した。日露戦争では第2軍司令部付副官として出征。1904年少佐。1917年関東都督府の命でロシア革命のさなかに再び渡航して諜報活動を行う。自伝四部作《城下の人》《曠野の花》《望郷の歌》《誰のために》がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石光真清」の解説

石光真清 いしみつ-まきよ

1868-1942 明治-大正時代の軍人,諜報活動家。
慶応4年8月31日生まれ。石光真臣(まおみ)の兄。明治22年陸軍にはいり,32年ロシアにわたる。ハルビンで写真館をいとなみながら諜報活動に従事。37年第二軍管理部長。少佐。大正6年軍嘱託となり,満州,ロシアで諜報任務につく。昭和17年5月15日死去。75歳。肥後(熊本県)出身。陸軍士官学校卒。手記が子の真人によって「曠野(こうや)の花」など4部作にまとめられ,昭和33年毎日出版文化賞をうけた。

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