矢上町(読み)やがみまち

日本歴史地名大系 「矢上町」の解説

矢上町
やがみまち

[現在地名]長崎市矢上町・東町ひがしまち田中町たなかまち現川町うつつがわまち平間町ひらままち

現市域の東部にある。北東部に普賢ふげん岳・行仙ぎようせん岳、中央部にしろ山、北西部に帆場ほば岳があり、間の瀬まのせ川・清水しみず川・現川川・中尾なかお川などを集めた八郎はちろう川が海(橘湾)に注ぐ。中世から伊佐早いさはや庄内矢上などとみえる。江戸時代は矢上村ともみえるが、天保郷帳などでは矢上町と記され、長崎路筋に矢上宿が置かれた。肥前佐賀藩親類同格の諫早家領で、諫早郷に属する。元和三年(一六一七)のイエズス会管区長コウロス徴収のキリシタン連判書付に「矢上」の林新兵へちにす・西村勝右衛門ミける・小田次良兵へ寿庵・坂井伊右衛門ふ乱志すこらキリシタンの指導者と考えられる一〇名が署名している。同八年諫早の支配下にあるヤンガミYanngamiの村でドミニコ会パードレのオルファルネルが庇護を受けたことがあるという農夫マチアス・マタイモンとその家族四人すべてが投獄され、九月火刑あるいは斬首に処された(パジェス「日本切支丹宗門史」)。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺によれば、長崎平戸ひらど町のかミや伝兵衛の奉公人喜右衛門尉は元和八年頃に父母ともに転びキリシタンとなり、寛永一九年「矢上村」から長崎本石灰もとしつくい町に行ったという。

慶長国絵図では高七四〇石余で、また「宇木ノ内 矢上古賀」などと記される。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図に矢上村とあり、鍋島領と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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