益田(市)(読み)ますだ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「益田(市)」の意味・わかりやすい解説

益田(市)
ますだ

島根県西部、石見(いわみ)地方西部の中心都市。日本海に臨み、東部を広島県、西部を山口県に接する。1952年(昭和27)美濃(みの)郡益田町と安田、北仙道(きたせんどう)、豊川(とよかわ)、豊田(とよだ)、高城(たかぎ)、小野、中西の7村が合併して市制施行。1955年鎌手(かまて)、種(たね)、真砂(まさご)、二条(にじょう)、美濃の5村を編入。2004年(平成16)美濃郡の美都町(みとちょう)、匹見町(ひきみちょう)を編入。なお、この合併に伴い、美濃郡は消滅した。市域は、中国山地の脊梁(せきりょう)部の山間地から日本海に至り、益田川、高津川などが流れる。中心市街域は、北流して日本海に注ぐ益田川と高津川のつくる三角州に広がる。JR山陰本線、山口線、国道9号、191号、488号が通じ、萩(はぎ)・石見空港からは大阪、東京便がある。

 歴史は古く、旧石器・縄文・弥生・古墳などの各時代の遺跡や埋蔵文化財が多い。また、中心市街域は、中世、石見地方の豪族益田氏が七尾(ななお)城を築いて本拠とし、関ヶ原の戦いで益田氏が転封するまではその城下町であった。近世は東部は浜田藩、西部は津和野藩に属した。高津川左岸の河口にある高津は津和野藩の外港として栄えた。津和野藩では石見和紙を製造して藩の財源とし、浜田藩の益田は益田川流域の木炭、木材の集散地で市場町として発達。しょうゆ、ござ、繭、桐下駄(きりげた)、扇子の骨などの生産、取引も行われた。大正末期、山陰本線益田駅の開業後、官公庁や商店などが駅前に集中し帯状の街村を形成した。昭和初期には、交通の便、豊富な用水、原料の繭などに着目して、郡是(ぐんぜ)製糸(現、グンゼ)、出雲(いずも)製織(現、大和(だいわ)紡績)などの繊維工場が立地した。空港を生かした石見臨空ファクトリーパークが建設された。海岸砂丘ではナツミカン・ブドウ栽培、沿岸部では沿岸・養殖漁業が行われる。山間部では、パルプ用材や木工加工品を生産し、造林や森林の整備・管理の振興が図られている。ユズとその加工品が特産。ワサビ栽培は全国有数の生産量を誇り、ほかにシイタケ、イチゴ、メロン、トマト、ホウレンソウなどのハウス栽培、肉用牛の飼養などが行われる。また、美都地区の都茂鉱山(つもこうざん)は、古代以来、金、銀、銅などを産出し栄えたが、1980年代後半に操業を休止、閉山した。

 文化財も多く、スクモ塚古墳と益田氏城館跡は国指定史跡、伝雪舟(せっしゅう)築造の万福(まんぷく)寺・医光(いこう)寺の両庭園(ともに国指定史跡・名勝)、国指定重要文化財には万福寺本堂、染羽天石勝(そめばあまのいわかつ)神社本殿、雪舟筆『紙本著色益田兼堯(かねたか)像』(益田市立雪舟の郷記念館)、狩野松栄筆『絹本著色益田元祥像』(島根県立石見美術館)などがある。「唐音(からおと)の蛇岩」は天然記念物。「益田の糸あやつり人形」は国の選択無形民俗文化財。南東部一帯は西中国山地国定公園の一部で匹見峡などの景勝地がある。面積733.19平方キロメートル、人口4万5003(2020)。

[野本晃史]

『『益田市誌』上下(1975、1978・益田市)』


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