皇室典範
こうしつてんぱん
皇室に関する重要事項を定めた法律。旧「皇室典範」は、1889年(明治22)大日本帝国憲法と同時に制定され、同憲法とともに日本の最高の成文法であった。したがって、成文憲法は形式上、大日本帝国憲法と皇室典範の二つに分かれ、皇室に関する規定はすべて皇室典範に組み入れられた。その結果、帝国議会は皇室に関する事項については、まったく関与することができなかった。このように、成文憲法が二元化した結果、あらゆる成文法は、宮務法(皇室典範およびそれに基づく皇室令)と、政務法(憲法およびそれに基づく法令)に分かれ、皇室典範は宮務法の基本法として、もっぱら天皇によって改廃された。
第二次世界大戦後、旧皇室典範は廃止され、新「皇室典範」(昭和22年法律第3号)が日本国憲法と同時(1947年5月)に施行された。名称をそのまま残したが、神道的儀礼部分を削除して簡素化され、普通の法律と同じく国家の統制が及ぶことになった。内容は皇位継承、皇族の範囲、摂政(せっしょう)、成年・敬称・即位の礼、皇族が結婚するときの手続き、皇籍離脱、皇室会議の仕組みなどについて定めている。皇室典範は現在、皇室経済法とともに特殊の法域として皇室法を形成している。
[池田政章]
新「皇室典範」は第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣(こうし)が、直ちに即位する」と定めているだけで、天皇の生前退位の規定はない。2016年(平成28)夏、天皇自身による生前退位の意向が明らかになり、2017年6月、皇室典範と一体をなすものとしてその付則に新たに規定した、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(平成29年法律第63号、略称「退位特例法」「譲位特例法」)が成立した。2017年6月に公布、公布の日から3年を超えない範囲で施行されることとなった。退位後の天皇は「上皇」、退位した天皇の后(きさき)は「上皇后」となり、敬称はいずれも「陛下」。
2019年5月、天皇となったため皇太子は不在となり、秋篠宮(あきしののみや)は「皇嗣」となった。宮内庁に上皇家を補佐する「上皇職」と、秋篠宮家を補佐する「皇嗣職」が新設され、皇嗣職が置かれている間は東宮職はなくなる。なお退位について、特例法として恒久法としなかったのには、天皇の政治行為や政治利用につながりかねない恣意(しい)的退位や強制退位を排除するねらいがある。戦後、皇室典範が事実上改正されたのは、宮内府を宮内庁とした1949年(昭和24)に次ぎ、二度目である。
[矢野 武 2017年10月19日]
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皇室典範
こうしつてんぱん
皇室に関する基本法典。(1) 大日本帝国憲法下で憲法と並んで日本の根幹をなす法典とみなされ,憲法とともに 1889年2月11日に制定されたもの。皇室自律主義のたてまえから,その制定,改正には国民や帝国議会は一切関与できないものとされた。(2) 昭和22年法律3号。1947年1月16日に制定されたもの。日本国憲法自体が皇室典範という名称を使っている(2条)ことから旧憲法下と同じくその名称が使用されているが,性格は通常の法律とまったく同一であって,国会が自由にこれを改廃できる。皇位継承の資格,順序,皇族,摂政等について定める 37ヵ条によって構成されている(→皇室会議)。
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知恵蔵
「皇室典範」の解説
皇室典範
皇室制度の基本を定めた法律(1947年施行)。(1)皇位継承、(2)皇族、(3)摂政、(4)成年、敬称、即位の礼、大喪の礼、皇統譜及び陵墓、(5)皇室会議の各章から成る。戦前の旧典範(1889年制定)から、大嘗祭(だいじょうさい)など神道儀礼の規定が削除されるなど簡略化されたが、骨格は踏襲している。旧典範は、欽定(きんてい)の最高法規で、国会の関与が許されなかったが、戦後の典範は一般の法律となった。皇位継承者を男系の男子に限る継承ルールの変更についても、国会で改正をすれば可能との意見が多数。
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こうしつ‐てんぱん クヮウシツ‥【皇室典範】
〘名〙 皇室に関する重要な事柄を定める法律。皇位継承、皇族の範囲、摂政、天皇および皇族の身分、皇室会議などについて規定している。旧憲法当時の皇室典範は憲法と同格で議会の関与が禁じられていたが、その廃止後、昭和二二年(一九四七)に制定された現行皇室典範は法律の一形式にすぎない。
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皇室典範
こうしつてんぱん
皇室関係における重要事項を規定した基本法
1889年大日本帝国憲法公布と同時に制定。皇位継承・践祚・即位・摂政・皇室経費などが規定され,その改正は皇族会議・枢密院への諮問だけで勅定された。第二次世界大戦後廃止されたが,1947年新憲法のもとで一般の法律として修正成立した。
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デジタル大辞泉
「皇室典範」の意味・読み・例文・類語
こうしつ‐てんぱん〔クワウシツ‐〕【皇室典範】
皇位継承・皇族・摂政・皇室会議など、皇室に関する事項を規定する法律。昭和22年(1947)制定。明治22年(1889)に制定された旧皇室典範は明治憲法と並ぶ最高法典であったが、現行皇室典範は通常の法律の一。
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こうしつてんぱん【皇室典範】
天皇の地位である皇位の世襲による継承を中心として規定した法律(1947公布)。大日本帝国憲法時代にも同名の法規範があったが,それは憲法を頂点とする政務法体系と区別された,皇室事務に関する宮務法体系の頂点に立つものであり,大日本帝国憲法と並ぶ最高の成文法典であった。旧皇室典範は,皇室自律主義の原則の下で,臣民の意思を反映させるべきものではないとされていたので,天皇によって勅定され(1889年2月11日,つまり大日本帝国憲法と同日。
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世界大百科事典内の皇室典範の言及
【金子堅太郎】より
…1880年元老院に出仕,各国憲法の調査に当たり,84年制度取調局の設置にともない,立憲制移行にともなう諸法制の整備に関与した。86年からは伊藤博文のもとで井上毅,伊東巳代治らとともに憲法,皇室典範や憲法付属の法典の起草に当たり,とくに貴族院令,衆議院議員選挙法の立案を担当した。94年農商務次官となり,日清戦争後の産業育成政策を立案,指導した。…
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